jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

混合ダブルスのできないスポーツを考察する(個人的な感想です)

今年の春の甲子園選抜高等学校野球大会)が2022/3/31に終わった。筆者は,学校の休み時間にソフトボールを楽しむぐらいで,少年野球にもクラブ活動にも関わらなかったので,野球にはまったく関心がない。

 サッカーもいつの間にかメジャーなスポーツになっていた。いわゆるサッカー県で生活をしたことがないので,その熱量を体感したことがない。

 ラグビーは,高校のときの体育で体験した。ヘッドギアを買わされ,親は少しでも衝撃を減らそうとクッションを縫い付けてくれた。ラグビーボールの独特の動きを追いかけるだけで試合にもならないし,スクラムでも先頭に入るわけではないので,ケガをするほどのぶつかりもなかった。

 相撲は,小学校の砂場では遊びですることはあった。テレビで大相撲を見ることはあっても,まわしを着けて勝負するわけでもなく,基本的に押し相撲しか取れないと思って,押し相撲ばかりしていたが,あるとき土俵際でうっちゃりを食らった。引き技は卑怯だなと思ったのを覚えている。

 小中高とずっと共学だったが,ダブルスのできるスポーツは経験した記憶がない。大学は男子ばかりだった。社会人になって初めてテニスに出会って,女性のスポーツについて初めて意識した。筆者の時代は,女性のスポーツはほとんどなかった。特にプロスポーツは皆無に等しかった。

 女性にとってのプロスポーツは,現在に至ってもテニスとゴルフぐらいしかない。野球は,昔からマンガでは女子の主人公が活躍していたが,女子の野球クラブは少ないし,プロ野球への道は皆無に等しい。ソフトボールのチームが各国にも作られているが,オリンピック種目からはまた外されてしまった。女子サッカーはオリンピック競技になっているが,10数カ国からの参加しかない。世界でもまだまだメジャーにはなっていない。

 スポーツ,特にプロスポーツは男女平等からは程遠い。パワー(力✕スピード)を必要とする種目は,筋肉量や身長・体重の差はいかんともし難い。仕事として身体を鍛え,限界をより高めるプロスポーツにとって,ストイックに仕事として日々トレーニングをするのに,「仕事だ」と割り切れる男性の方が機会に恵まれている。女性にとっては,家族を育てて支えるという価値観にどこかで引っ掛かってしまうのではないか,という気がする。

 男子の競技と女子の競技がそれぞれ存在し,しかも混合形式で試合が行われる競技が増えてきているように思う。テニス,卓球,バトミントン,そして冬の競技ではフィギュアスケートやジャンプのほかにカーリングに混合競技ができている。。剣道や柔道の団体戦,体操の団体戦でも男女混合でチームが作られている。男性がリードする形が多いが,女性選手の方がリードすることもあり,華やかさとともにチームとしてのいい雰囲気が出ていると感じる。

 「身体1つで職業としてスポーツをする」ことがプロスポーツだとすると,現実的には男性の競技が中心であり,テニスとゴルフが唯一,賞金額が大きくて成り立つ世界のようである。スポンサーや支援機関に,王族や貴族が入っているということもあるだろう。ウェアなどのファッションにこだわっている点でも,他のスポーツよりは女性にも続けやすい面はあるように思う。

 さて,ファッション面でも今1つ垢抜けないのが野球である(これは筆者の個人的な意見です)。キャップは「野球帽」から抜け出ないし,長袖のアンダーウエアがだいたいが黒いのも気に入らない。脚にはゲートルを巻いたようになっている。これにヘルメットがどんどんゴツくなってくるし,肘当て,膝当てなども仰々しくなっている。

 硬式の野球ボールは石のように硬く,まともに当たったら命に関わる。バットもこのボールを打ち返すほど強度が高いが,プロ野球のバットは木製であり,折れることもある。折れれば飛んで来て突き刺さる可能性もある。実際,筆者の高校でグラウンドで練習中の野球部の選手が打った打球が頭に当たって亡くなった生徒もいるし,筆者の兄も小学校のときに仲間が振り回したバットが頭に当たって脳震盪を起こして病院に運ばれた。靴のスパイクも金属製で角があり,滑り込みで相手選手を傷つけることも少なくない。

 別に野球に恨みがあるわけではないのだが,プロ野球が世の中で最も優れて尊敬を受けて稼げる仕事であるかのように推奨されていることに疑問を感じている。

 どの世界でも,人格者もいればトンデモ人もいる。社会活動も含めて野球人の中で活躍したのは,筆者的には王貞治(以下敬称略)と長嶋茂雄,近年では松井秀喜イチローが記憶に新しい。現在大リーグで活躍している大谷翔平選手の人格者ぶりはそれなりに報道されているが,ほかにはほとんど記憶に残っていない。久しぶりに球界に戻ってきた新庄剛志監督も,パフォーマンスで終わるような気がする。

 もともと,アメリカで始まった野球が日本にもたらされたのは,明治時代初期(明治5年)と歴史が長い。現在はプロ野球は12球団で選手は900人あまり。公式の試合に出られる選手は限られる。レギュラー選手と二軍選手では圧倒的な収入差もある。実力に伴った完全な格差社会なのだろう。選手寿命も,おそらく10年ぐらい。その間に稼げるだけ稼ぎ,あとは一握りの人は監督やコーチなどの野球関連に残れるが,あとは野に放たれる。野球一筋で生きてきた人にとって,決して楽な道ではない。

 高校野球でも,参加校数が約3000校。30人ずつ部員がいるとして約10万人が甲子園を目指す。甲子園出場校は約50校。試合登録で20人として,毎年1000人が参加できることになる。このうち,プロ野球にスカウトされるのが1球団で5人として毎年60人ぐらい,ということになるだろうか。

 高校野球での活躍をスカウト担当者が見て厳選して入団契約した若者が,またすべて活躍できるというわけでもない。サラリーマンという道を選んだ筆者にとっては,なんともハイリスクな仕事選択ではないかと思ったりする。

 もともと,恵まれた身体で生まれた人にとって,スポーツでトップを目指すことは限りなく幸せなことなのだろう。相手に勝つことでますます自分の力を信じ,喜びを感じ,そしてトップを目指す気持ちになるのだろう。周囲もそれを応援し,期待し,持ち上げると,またその上を目指すようになる。筆者はもともとそのような才能も素養もないので選択肢に入らないのだが,やはり「日本の野球」という狭い世界だけではなく,せめて「世界の野球」も視野に置いて育てる必要があると思う。

 テニスには,世界を目指すという雰囲気がある。サッカーももともとは欧米のスポーツであり,日本が挑戦者として世界を目指している。ラグビーやバスケットボールは世界を目指すにしても,あまりにも体格が違いすぎる。

 ゴルフも世界に戦いの場があるが,ローカルなスポーツという印象がまだまだ強い。野球もほとんどは日本国内で留まってしまう。相撲に至ってはごく一部の海外の選手が入ってくるだけである。

 男性である筆者としては,スポーツの世界で活躍できている人はうらやましく思う半面,肉体を酷使し,時にはケガをし,それを手術で補修してまで競技を続けなければならないスポーツ選手に対して,“そこまで身体を痛めつけなくてもいいのでは”と思ったりすることもある。記録に挑戦する競技は自分との闘い,あるいは世界の競合との闘いであり,0.1秒でも0.1kgでも1mmでも記録を伸ばすことに意義があり,それは数字に表れるから自分の努力との比較になる。しかし対戦競技では,相手が負ければ自分が勝ち,という価値観となり,自分が試合したタイミングの相手のコンディションによっても運不運が分かれる。ましてや,年間を通じて50試合も重ねた後で最も勝ち数が多いチームが勝ち,というプロ野球の場合,「今回は負けても次の試合で勝つ」といった甘えが生じ,勝ち抜きで1本1本の試合を大事にしなければならない厳しさに比べると,そこに何億円もの契約金を投じるという神経が理解できない(何度も言いますが,まったくの個人的な意見です)。

 自分の子供は,最初野球をすると言い出したのでグローブを買った。しばらくすると,近くでサッカーを教えてくれるというので,スパイクシューズも買った。いずれも長続きしなかった。本人が自分に合わないと思ったことと,どうもボールが苦手だったという理由があるようだ。その後,中学ではテニスに打ち込み,高校ではクラブで水泳をしていた。ここでも頭角を現すことはなかったようである。ただ,高校で経験したスキーは今でも好きらしく,友達と出かけていく。筆者も大学時代にスキーにのめり込み,社会人になってテニスも楽しんだ。野球やバスケットボールなどから言わせると,「軟弱なスポーツ」ではあるが,程々に練習して技術を磨き,程々に楽しみ,程々に格好よく披露する,というスポーツの方が,楽しく長続きするような気がする。

 少年のころから少年野球に打ち込ませすぎると,男の世界,勝負の世界だけで育つ可能性を否定できない。社会性や礼儀,男女平等などといった価値観も持たせることができるのか,指導者に対してちょっと疑問を持っている。女子に対して場を与えない傾向の強いスポーツに対して,もう一考してほしいと思った次第である。