jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

日本人のマスク習慣は,鼻の低さが功を奏したという仮説

筆者の外出時マスク歴が2002年のSARS以来であることは何度かこのブログで書いた。外出時の1時間程度の連続着用にそれほど不便は感じなかったが,新型コロナウイルスの感染防止のためにまさか1日中の着用が求められるとは思わなかった。

 100円ショップで「マスクインナーカバー」を購入 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/2/11 でマスクインナーカバーと出会い,マスク面が顔に付着する不愉快さから開放されたように感じていた。当初,カバーが顔に接触する部分に汗をかくのが欠点と思われたが,逆に汗がマスクにしみ込むのを防ぐことができ,猛暑日でも予想以上に快適だった。筆者のように,複数回着用することに決めた人間にとって,より多い回数使えるのは好都合だった。逆に,直接顔に着けている人は,衛生面で毎日廃棄した方がいいだろう(現実問題として,マスクにウイルスが付着して,それに触れた手指で目などの粘膜から感染する,という感染ルートの可能性は,限りなくゼロになっていると思われる)。

 筆者にとっての福音だったマスクインナーカバーだが,その後も実にいろいろな形のカバーが登場している。基本系はすでに導入しているので,ユニークなタイプに出会ったときにぐっと考えて購入するかどうかを決めている。

 より平たく,鼻や頬の近くにカバー面のあるタイプは,マスク内の空間が狭いために呼気の熱気が溜まりにくく,涼しく感じることが多いのだが,外気の侵入が少なく,1人歩行時などでマスクを少し浮かせた使い方をする際に暑く感じた。

 逆に,マスク内の空間を広く取ることができる大きめのタイプは,カバーごとマスクを大きくずらして1人歩き時には快適なのだが,マスクひもをより強く引っ張る形になり,耳の後ろが痛くなりやすい欠点があることが分かった。

 さらに,耳の後ろが引っ張られるのと同時に,インナーカバーが鼻に押し付けられることによる不快感が,最近特に気になっていた。話をしたり,歩いたりするときは気にならないのだが,集中してパソコン仕事をしていると,鼻への当たりを意識してしまい,逆に集中できなくなることがわかった。

 このため,最近は,インナーカバーを口の周りに下ろして鼻から外し,鼻はマスクが直接当たるような形でインナーカバーを使うようにしている。イヤホンと同様,最終的には自分にフィットする形のものを特注するしかないのかもしれない。

 と考えたところで,日本人にはマスク習慣があるのに,海外にはなかった理由として,日本人の鼻の低さが功を奏したのではないか,という仮説を立ててみた。

 海外でも,医療従事者はマスクを着用する。感染症患者と接したり,手術の場面ではマスクは必須である。しかし,この場合のマスクは市販品というより自分でヒモを結んで最適な状態になるように調整している。新型コロナウイルス対策のN95規格マスクでも,耳ヒモの長さが調整できるタイプが多い。

 一方,日本では何でも量産品で,昔からのガーゼマスクでも現在の不織布マスクでも,マスク面の大きさもヒモの長さも画一である。使う人が違ってもサイズは同じ。大きな顔の安倍晋三元首相がアベノマスクを着用するとずいぶん小さい印象があった。

 西洋人は特に鼻が高い傾向があるので,量産品マスクでは鼻梁や耳の後ろがすぐに痛くなるのではないか。何かそのような理由も,マスク習慣ができなかった理由の1つかもしれない,とふと思ったのである。

 おそらく本音は,顔の表情が隠れてコミュニケーションが取りづらいことを嫌ったからだと思われるし,日本のような人口密度の高さや公共交通機関での都会集中の仕事スタイルではないことなどで,マスクをする必要がなかった,ということもあるだろう。日本でも,不審者のイメージとして,マスク,サングラス,深くかぶった帽子,そして黒っぽい服,と相場が決まっている。現実でもまだ,この3点セットで歩いている人が多いのが不思議でならない。

 ほかにも,おそらく日本人は口臭が少ないとか,大きな声を出さないとか,マスクに対して問題が少ないことも功を奏しているのかもしれない。ただ,まもなく丸3年になろうとする今,同じ3年間をずっとマスク着用のまま過ごした若い人たちや子供たちの,今後の人生にとってこのマスク姿が何らかの影響をもたらすのではないか,という点が心配でもある。逆説的に,筆者が好まない黒マスクが若者の間で流行ったりしたことが,何かしら不穏な感覚を筆者は覚えてしまっている。

 マスク着用は,個人の自主判断に委ねられる時期に来たのかもしれない。飲み薬系の特効薬がまだ出てこないのは不安だが,いい加減,五類感染症への指定替えをして,日常に戻す時期かもしれない。