jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

“仮想”ストーリーづくりは単なる現実逃避--小説・アニメ・映画

毎年,芥川賞直木賞が発表され,芥川賞では新しい作家が選ばれる。筆者はベストセラー小説には関心がないので,常にスルーしてきたのだが,やはり一言書いておきたかったので,まとめてみる。

 始まったのが1935年。菊池寛芥川竜之介直木三十五の名を冠した賞を作り,毎年2回の選考・発表が行われる。

 選考を経て,候補作が5作に絞られ,最終的に受賞作が決まる。芥川賞の選考対象作品は,毎回2000作ほど。直木賞は,芥川賞受賞作家が対象なので,作品数は絞られるようである。

 受賞インタビューの一部を聞くともなく聞いていると,ストーリーの想定からして尋常ではない。まったくの空想的なストーリーから,逆説的なストーリー,そして現在社会を象徴するようなキーワードを冠したストーリーなど。

 世界中の近年の創作作品を見ていると,かつては正義とか勧善懲悪とかがテーマだったように思う。特に,地球を危機に陥れる地球外生物や宇宙人とそれに対抗する地球防衛軍などのストーリーが受け入れられた。その後は社会の歪みがテーマの中心となっているように見える。一般的な常識から外れた世界が描かれることが多い。マイノリティー,犯罪,障害者,貧困など。

 筆者が好きなサスペンスドラマでも,正義の味方であるはずの警察や検事,法律をベースとした裁判などのストーリーの中に,内部不正や資格乱用などのストーリーが加わることが多くなった。勧善懲悪の部分はスッキリするとして,その背景のドロドロしたストーリーにはウンザリする。それがまた現実の犯罪や事実隠蔽などと重なると,やりきれない思いになる。

 小説や映画などのストーリーを考える中で,前提条件に異常性を持ち込む手法には飽き飽きしている。ただし,映画やアニメではこのストーリーをビジュアルとサウンドで補強,あるいはゴマカシで誇張して表現できる。一方,小説では文章や文字の表現だけで読者を納得させるための技量が必要である。ただそこにも,たとえばカタカナ言葉だったり,短い発声だったり,といったテクニックが盛り込まれる。

 表面的なテクニックだけで受賞できるとも思えないから,もちろん作者には才能があるのだろう。しかし,かつての古典文学作品のような美しさや深みがあるのだろうか。メインの仕事の合間に書いたり,専業主婦が書いたりするケースを見ると,その真剣度に疑問が残る。選考委員も大量の対象作品の中から絞り込むのに,やっつけ仕事になっていないだろうか。

 コミックやアニメに至っては,仮想のストーリーがさらに極端になってくる。絵の表現もどぎつくなってくる。人格の入れ替わり,男女の入れ替わりなども極端だし,現代の設定ではストーリー展開ができないからサムライ時代や全くの架空の空間でストーリーが展開される。

 これまではアニメの公開場所はテレビという公共メディアしかなかった。民放局であっても一定の倫理規定が働いている。たとえば,出血する場面であっても,色を黒色にするなどの配慮がされていた。

 ところが現在は,インターネットのYoutubeのような自由な,あるいは無法な公開の方法がある。さらに,サブスクリプションを利用できる動画サイトで次々と新しい作品が公開されている。だれも内容のチェックを行わない。刺激的であればあるほど,視聴数が上がり,お金が集まる仕組みができてしまっている。

 作品づくりに必然性や継続性,そして芸術家としての切迫性があるのだろうか。「これからもいい作品を作っていきたい」という受賞インタビューに嘘臭さを覚えてしまうのである。才能のない筆者の単なるネタミなのかもしれないが。

 ストーリーが拡散をし続けているように思える。芸術が,枠をはみ出すのは時代の流れなのかもしれない。現代芸術は,絵画にしても音楽にしても,筆者の感覚を越えている。副業作家に用はない。芸術家の命の叫びを聞きたい。これからも,泡沫作品として無視し続けることにしたい。(あくまでも個人の意見です)。