jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

知能犯は法の合間をかいくぐって犯行を行い,弁護士は法を斜(はす)に解釈する--法律が形骸化する危機感

弁護士は,犯罪者としていったん疑われた人の側に立って仕事をする。相手が本当に犯罪を犯したのか,それとも冤罪を負わされているのか,「真実はいつも1つ」であれば正しい答えは出るはずである。

 ドラマでは,犯罪者が「自分は冤罪を負わされている」と証言し,弁護士が弁護し,裁判で無罪を獲得した後で,「実は自分が犯行を犯した」と打ち明け,一事不再理で同じ案件で二度と罪を受けることはない,として処罰から逃れ,しかし何かの見落としがあって別件で犯罪が立証され,「悪は必ず罰せられる」としてハッピーエンディングになる。

 しかし,現実はよくわからない。犯罪が複雑化して法律でカバーしきれなくなり,法の合間をかいくぐって犯罪を行い,弁護士はその法律の穴を突いて,ひょっとしたら実際は犯罪を犯しているかもしれない人を弁護し,罪から逃れさせるのが仕事である。法律的には正しい解釈なのかもしれないが,一般常識からすると「曲解」と見えることもあるし,一般常識とは違う斜(はす)な解釈ではないかと思えて戸惑うこともある。

 県道を時速194kmで走行して事故を起こし,相手を死亡させた事件で,過失致死ではなく危険致死という判決が出た。危険運転か過失かの個人的見解--一般道の30km/h,国道級の50km/h,高速道路の80km/hが妥当と思える件 - jeyseni's diary (2024/11/6)と筆者は書いた。裁判官裁判での判決なので,一般常識が勝ったと判断できる。しかし,被告および弁護団は控訴するのだろう。そうやって何になるのだろうか。弁護士は,そんな法律を逆解釈するような仕事をしていて虚しくないのだろうか。

 袴田事件ではようやく無罪判決が確定した。どうやら証拠の捏造があったことが確定された。しかし,本当に証拠が捏造されたという証拠は証明できていない。真犯人もまだわかっていない。被告の人権は弁護士の努力によって守られたが,事件は解決していない。

 近頃,腹だたしいのが,選挙に対する妨害とも言える行為である。法律の合間をかいくぐって,ギリギリの線で非常識な行動を行う。罪にも問われないし,実際に確保されることもない。そうこうしている間に,次の選挙ではまた別の手段で選挙そのものを撹乱しようとする。一般人の感覚からするとあまりにも非常識なのだが,本人は普通に解釈すればこういう行動を取っても問題ない,という具合に解釈して行動する。

 しかもこれをメディアやSNSが後追いするものだから,いい気になってさらに先回りして新しい行動に走る。ある意味では起こる事態をあらかじめ想定して「先手を打つ」という知能的な犯罪行為である。

 こうした一般常識からは外れた行為を不法行為として指摘されたとしても,おそらくこれを弁護する側も初めて法律の穴に気づき,弁護が成立すると確信して弁護を引き受けるのだろう。本来は,法律に穴があることを指摘し,その改善にまず努めるのが法曹家だと思うのだが,逆にその法律の不備を利用して,本来は非難されるべき被疑者を金で助けるような形に見えてしまうのは,皮肉なものではないだろうか。

 「法律に不備があるから,被疑者は無罪」では,同じような犯罪を防ぎようがない。どうもいつも弁護側が鬼の首を取ったような顔つきで会見に臨む姿が気に入らない。これがまた判例となって,その後の裁判での判断基準にもなってしまうから,恐ろしい。屁理屈を言ったとしても,どうとでも解釈できる法律を盾にしていること自身をもう一度考えて,次の行動に移してほしい。でないといつまで経っても犯罪はなくならないし,ますます巧妙化して,その犯罪に加担してしまう形になりかねないからである。

 民間人の判断を聞く裁判員裁判が始まったことで,多少の変化はあったのかもしれない。どちらかと言えば,警察や検察側の不当な権力行使に対する意見を求める形になっているような気もする。今回の暴走による事故を危険行為とし,そのための数値的判断基準についての議論が具体的に進むのだろうが,逆にまたこの数字に対するいちゃもんが起きないとも限らない。さらに時代によって数字が変わることも想定しなければならない。世の中の常識そのものも変化していく。世論を作っていたマスメディアがその力を失い,無法地帯のSNSの情報が世論を形成する時代である。法律もなんとなく形骸化する方向に進んでいる危機感を覚える。