jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

オーストラリアで16歳未満のSNS利用禁止法が可決--そもそもスマホ所持そのものがおかしいのだが

オーストラリア、16歳未満のSNS利用を禁止-新法が成立へ(Bloomberg) - Yahoo!ニュース (2024/11/29)。国民の7割が賛成し,可決した。アカウント作成を禁止することをプラットフォーム側に要請する。施行は1年後としている。

 対象となるのは,X(フェイスブック),インスタグラム、スナップチャット、TikTokなどだが,Youtubeは教育的な価値もあるので対象外としている。

 しかし,問題なのはスマートフォンそのものを若い世代が所持することだと筆者は考える。

 筆者の場合,子供が中学生になったときに今はなきPHSを持たせた。メール機能はあったが基本的に電話だけしか使わず,緊急連絡用,安全見守り用として持たせていた。防犯ブザー機能があり,インターネット接続などはできなかった。

 やがてガラケーを経て,スマホに乗り替わるのだが,筆者は引き続きガラケーを使い続けていた。どうにもあのタッチパネル上の操作が苦手で,ボタンをクリックした感触がなければ入力した気にならなかったからである。つまり,電話とメールだけしか,基本的に必要としなかったからである。

 子供のスマホに遅れること2年,中古のスマホを入手し,入力やブラウザなどのアプリの使い勝手を確認し,スマホへの乗り換えとなった。このころはまだ画面も5インチ程度と小さく,ブラウザで情報を見るのも不満があった。「やはりブラウザを使うならパソコンでしょ」と思っていた時代である。

 その後,画面が6インチ大になると,事情は大きく変わってきた。もはや,パソコンは使えないのにスマホは使い倒すという若者ばかりになっていた。カメラもコンパクトデジタルカメラ並みかそれを上回る性能を持ち,携帯性に優れていることから,コンデジを駆逐しつつある。そこで,文字のSNSだけでなく,写真や動画のSNSに若者が飛びついた。画面も大きくなり,ブラウザも快適に使える。なによりも,コミックの配信が大きいだろう。

 スマホの特徴として,常に持って画面を見られることが大きいのだが,その前に「分割で買える」ことが普及を後押ししたと考える。

 今や,スマホでの処理能力はパソコン並みかそれ以上になっていると言えるだろう。かつて「こんなテンキーで文章が打てるか」と思ったものだが,海外では画面上のソフトキーボードで,日本では画面上のテンキーでのフリック入力で高速入力ができるようになった。ボタン式のハードキーボードでは実現できなかっただろう。写真がきれいに撮れるカメラが付き,さらに撮ったその場で好みに画像加工して,そのままSNSに配信する,という一連の流れを1台でできる。パソコンだと,それぞれデジカメからのデータの取り込み,ハイエンド画像ソフトでの加工,そしてネットワークをつないで配信,と手間もお金もかかるが,スマホだと手のひらの上でできる。しかも,パソコンだと「作業」だが,スマホだと「チャット」感覚で情報発信できてしまう。

 その「パソコン並み」なのは価格にも表れている。今や,1台10万円のスマホなど当たり前のように出てきているのだが,これを月々の通信料と合わせて分割で支払う形で契約できるので,購入しやすい。パソコンだと一度に10万円前後を払わなければならないし,分割で購入するにはクレジット契約が必要だったりするが,スマホはそもそも使用料の支払いのための契約なので,機種代を通信料に上乗せして請求する形が取れる。

 さらに,数年後の買い替えを前提とした価格設定や,型落ち品,中古品市場も出来上がって安く購入することもできる。自宅にWi-Fi環境があれば,通信契約すらなしでも使えるし,月額1000円程度の格安SIM契約もできる。とにかく,購入の障壁が低いのである。

 大きさから言っても,携帯ゲーム機と変わらないので,親のスマホを子供がゲーム機代わりに使う,あるいは子供を静かにさせるためにスマホを子供に渡してゲームをさせる,といった使い方をさせることで,物心が付く前からスマホを触っている子供が当たり前になっている。

 その流れの中で,年齢制限が掛けられていないコンテンツに到達するのは時間の問題である。アダルトコンテンツにも容易にアクセスできる。

 本来は,通信環境を提供するキャリア側がフィルタリング機能を提供しているのだが,たしかに制限された状況での不満度は高い。結局は子供の要求でフィルタリング機能を外してしまう親も多い。こうしてSNSという無法地帯に無抵抗のまま入り込んでしまう危険性があると考えられる。筆者の家族の場合は,物心つく前にスマホが無かった時代なので,おそらく子供への悪影響はなかったと思っているが,その後の10年間のSNSの暴走が止まらない状態だと感じる。

 今回の措置は,キャリア側ではなく,SNSというプラットフォームの提供者に対してユーザーの使用制限を課す法律である。年齢で言えば中学生の間はSNSを見ることも情報発信することもできない形である。タブレット学習が小学校から始まっている中で,SNSへのアクセスを止めることが可能なのかどうか怪しいものもある。普通に年齢を偽って登録することもできる。

 オーストラリアでも日本のマイナンバーに相当するデジタルID制度は運用されているが,納税のための仕組みのようで,子供まですべてナンバリングされているのかどうかを筆者は認識していない。しかし最終的に年齢でいろいろなことを管理しようとすると,個人のプライバシー情報が第3者に流れることになる。この辺りも問題ではある。

 さらに,企業活動に対して国が制限を掛けることに異論を持つ人もいるだろう。バーチャルなネットワークが作られることで,国という存在の影が薄くなりつつある。すでに,SNSの世界は無法地帯であり,そこに制限を掛けようとする国や政府,法律は,いわば「越権行為」と見られているのかもしれない。

 筆者はいまだにこのHatena Blogで匿名でほそぼそ(いや,ぼそぼそ)とつぶやいているだけに過ぎない。おそらくプライバシーは知られていないと思っている。仕事でも表舞台に立つことなく,裏方,黒子に徹してきた。実名は出ているが,顔出しはしていない。自分のプライバシーをできるだけ守りたいと思っているからである。議論も炎上もさせたくないので,コメント機能もオフにしている。したがって拡散もしないし,アフィリエイトも付かないが,それでいいと思っている。

 世の中の人が,SNSで個人のプライバシー丸出しでコメントしたり,写真や動画を公開し,さらにその不特定多数の情報を見て楽しむという新しい“文化”に筆者はついて行っていないし,足を踏み込むつもりもない。きちんと手順を踏んで精選された情報を得たいと思っている。

 かつて,テレビや新聞などのマスメディアが,情報の価値判断をして公序良俗に反する不適切な内容は制限してきた。書籍も,時間を掛けて内容を精査し,不適切な表現を変更するなどして,社会に提供してきた。それが情報発信者の生命線だった。一方で,不適切だがニーズのあるコンテンツは,スポーツ新聞や週刊誌,レンタルビデオなどのアングラメディアとして別系統で流通していた。ビジネスマンが通勤で使う駅の売店(キオスク)が主な販売個所で,書店で入手する人はおそらくほとんどなかっただろう。転機は,コンビニエンスストアでの雑誌販売だと思う。パンや弁当を買う感覚で週刊誌やスポーツ新聞を買うことができるようになった。

 パソコン時代には,自宅の電話回線などのネットワークを組まなければ外部と通信ができなかったが,スマホはそれ自身がネットワークにつながってしまう。情報のやり取りが無制限,無監視な状態になる。そもそもその環境を成長途中の子供に提供すること自体が問題だと筆者は考える。子供たちのSNSへの登録禁止だけでなく,スマホの所持禁止も検討すべきだと思うほどである。

 しかし,子供は親を見て育つ。親が自分たちの方を見ることなく,スマホに熱中しているような時代である。スマホの存在が当たり前となり,中学生どころか,ベビーカー時代からスマホを操作できる状況で,親世代がすでに今回の制限について納得しないケースも多いと思われる。

 スマホの次に来ているスマートウオッチ,さらにスマートメガネも各社が取り組んでいる。バーチャルとリアルの境目が消えつつある中で,リアルの世界を歩きながら,バーチャルな画面で「ここから先はストップ」といきなり表示されることは精神的なストレスになるにちがいない。リアルの世界でも,たとえば交通違反となる状況に必ずしも警察がいて取り締まるわけではないから,ある程度の許容幅があるが,デジタルの世界はすべてのポイントにストップサインが出て,そこから先に行けない状態になる。制限をすること自体が不利益につながるという,まさに無法地帯である。

 筆者の寿命はあと長くても15年ぐらいだろう。次の10年でおそらく世の中は大きく変わるに違いない。筆者がSNSの世界に入ることはおそらくないし,今以上の複雑な世界は拒絶するだろう。逆に搾取される側に立つ危険性もあるが,それはもうあきらめの心境にある。ただ,かつてマスメディアに身を置いた立場からは,正論を続けたいと思うし,メディアに対してはその役割をもう一度取り戻し,正論をぶつける姿勢をもう一度取り戻してほしいと思っている。SNSはエンタテインメントのメディアであり,バーチャルな世界である。ここにリアルな国や組織の維持に必要な民意を求めることが間違っている。マスメディアが正しい報道をせずに,お笑い芸人や素人のコメンテーターに好き勝手に話をさせるような場を提供してきたことが,選挙結果を大きく狂わせて元凶の1つでもある。衆議院議員選挙の前に筆者はマスコミは予測報道や経過報道をやめるべき--結果報道に徹しないと,誘導報道になってしまう - jeyseni's diary (2024/10/26)とコメントした。結果ありきで番組を作っているからである。その後の世の中の動きはご存じの通りである。

 オーストラリアのSNS利用制限も,国による統制の1つと捉えられて反発を買う可能性も高い。SNSを生み出してきたアメリカの次期政権ともぶつかるだろう。もはや,バーチャルな世界を国レベルでコントロールできなくなっている。国連も機能を果たせないし,宗教のトップの発言も効果がない。

 ノーベル平和賞が政治家でもなく広島市長崎市でもない,被爆者による組織が受賞したことも,もはや国などの行政組織が世の中をコントロールできない状況を表しているようにも見えた(正直筆者は,被団協という組織の存在をまったく知らなかった)。

 高齢で大変だが,上皇様の最後のお勤めとして,国連会議で人類の平和を訴えていただきたいと思っている。それもご自身の意思で。戦争を体験された最後の証人として,人類があるべき姿を訴えてほしい。リアルな世界で続けられている国どうしの戦争や争い,バーチャルな世界の無法状態での人類の尊厳の破壊について,世界に発信してほしい。今,人類は何をすべきか,語れる最後の人だと筆者は思っている。せめて書簡で残してほしいものである。