夫婦別姓問題について,筆者は古典的な考えしかなかったのだが,個人的にはいい解決法を思いついた(というか,すでに検討はされているとは思う)ので,メモ的にまとめておくことにする。
結論は,「夫婦別姓選択制」なのだが,条件付きでの選択である。それは,「結婚時は同性か別姓かは選択制,子供の出生段階で原則同性。別姓を継続する場合は,親権を設定し,それに従って子供の姓を確定する」というものである。
子供がいない状態で,仕事をするのに旧姓がいい,と言うのなら,別姓を選択すればいい。それは夫婦の勝手である。しかし,この状態が継続すると,子供の姓が決まらない。そこで同性に変えるという選択もできるし,別姓のままなら子供をどちらが責任を持って育てるのかの親権を家庭裁判所で確定して,戸籍には子供の姓についての追加記載欄を作るようにすれば,問題はなくなるのではないかと考える。
世の中,もう1つの「同性による結婚」が話題になっており,こちらは「憲法の定める結婚の自由」に対して民法などが違憲状態にある,との判断が確定しつつある。男同士,女同士の夫婦像という,筆者には個人的には受け入れがたい状態なのだが,この場合も2人で生きていく分には同姓だろうと別姓だろうと自由に選択してもらって構わないが,養子縁組で子供を家族に迎えるなら,同姓を原則,別姓なら子供の親権を設定,というスキームで問題なくなるような気がする。
諸外国では,夫婦別姓が基本で,子供ができても別姓のままというケースが多い。その場合,子供は多くは父方の姓を名乗るが,中には両方の姓をくっつけて名前にしてしまうというケースもある。これを代々続けてどんどん正式名が長くなる国もある。落語の「寿限無」みたいになってしまうのだが,通称も設定されてそれが当たり前という文化もある。
別に男尊女卑するつもりはないのだが,男が家の外に出て家族に必要なモノ(食糧,お金)を取ってくる,母親が家で子供を守り育てる,という太古からの構図は,狩猟本能のアドレナリンとドーパミンを使う男性に向いた形だと思う。平和を好む女性にとっては,セロトニンを使って子供に愛情を注ぎ,穏やかな子孫を育てるのに必要だと思う。
昨今,経済不況も重なって,結婚しても夫婦共稼ぎが当たり前になってしまい,子供を作らない,あるいは産んでも1人か2人という家族が増えた。夫婦2人から子供2人では拡大再生産にはならず,人口が減少するのは当たり前という単純な計算ができなくなっている。しかも,結婚しても残念ながら子供に恵まれない夫婦が人工授精や体外受精というある意味で不自然な形を取ることで,2人目まで行きつかないことも多いような気がする。そして,1人の子供に必要以上に手を掛けることで,幼稚園段階でのお受験,いや近くの公園での公園デビューからスタートして変な高学歴主義がいまだにはびこり,子供らしい共同生活もなく学校の勉強の場に入ってしまうと,勉強の面白さが分からないまま我がままな子供となってしまい,そこから不登校などが増えてしまう結果につながって行くような気がする。学校の先生は,知識を教える教育者であり,社会生活,共同生活に適応できる人格を育てるのは,原則は家庭の親の使命だと思うのだが,近年は学校の先生にしつけを任せてしまう親が増えているようである。教員の負担が増え,結局,先生への成り手が減り,教育者もいなくなってしまう。悪い循環が続いてしまう。
夫婦は,しょせんは他人同士である。「家」制度がなくなりつつある現在,最後にどの墓に入るのかで同姓・別姓を議論すればいい。筆者は,関東に移って新たに墓を作った。当初,墓石銘に「〇〇家」は入れないつもりだったが,家族からの要望もあって「〇〇家」と刻んだ。ペットも一緒に入れる墓を選んだ。いい家族だなと思うが,別にこの土地に家族を縛りつけるつもりもないので,この墓を選ぶかどうかはそれぞれの判断だと思っている。正直,すでに過去帳もなく,ここからのスタート,あるいはここ1代キリかもしれない。そういう時代であるとも言える。
いよいよ,日米安保条約に対する不満も発出されるようになった。あの「世界第2位の経済大国・日本」は,いったい何だったのだろうか。まさに単なるバブルだったのかもしれない。ウクライナ情勢を見ても,どうやらやはり大国(アメリカ,ロシア,中国)が世の中を動かし,小国は妥協せざるを得ない。まして,自然災害大国の日本は,自分たちの身すら守れない状況である。有事には,アメリカの後方支援をする,と言っても,支援する武器もなければ物資も石油もない。すでにアメリカ軍は「世界の軍隊」をやめてどんどん撤退して自国の守りに回っている。中国と台湾の有事でもどこまでサポートするのか,その飛び火が日本に及んでもサポートはしないのではないか。同じ軍隊を持つ韓国と台湾とは共同戦線を張ることはできても,日本の自衛隊はいざとなったら除け者になるのではないか。
阪神淡路大震災から30年で阪神地区は見事に復興した。しかし,2011年の東日本大震災から14年経っても特に東京電力福島第一原子力発電所の爆発に伴う地域は一向に復興しないし,汚染残土の問題もまったく放置されたままである。2024年1月1日の能登半島地震から1年が経つが,こちらもまだ瓦礫の山が築かれている。そこに岩手県大船渡の森林火災が1週間以上経ってもまだ消し切れていない。
何でも相談して議論して最後は多数決で決める,というのが民主的なやり方だと,戦後の日本は信じてきたところがある。筆者の世代はそれが当たり前だと思っていた。しかし,物事は枝葉末節の議論はあっても,大筋を示してリーダーシップを取る人物がいて初めて前に進む。枝葉末節は後から微調整を繰り返せばいい。しかし,今の世代はリーダーシップを取る人がいない。すべてが個人主義である。したがって組織が成り立たなくなり,会社,企業,学校,そして家庭までが,迷走してしまう。
リーダーシップという意味では,アメリカのトランプ大統領の主義主張は一貫しているし,脅しによる政治という伝統的な手法もすっきりしている。おそらくぶれることはないだろう。大統領の命令で動く軍隊という組織も,いまだにエリート集団として機能している。しかし,日本にはリーダーがいない。戦前は天皇が神であり,リーダーであり,国民の心の拠り所だったが,戦後は「エセ自由」で分散してしまった。20世紀の間は,戦後復興で企業組織に人を集約し,経済発展を遂げたが,その組織の中の不正が結局は組織を崩していった。かつての日本軍は組織的には国民の上に立っていたが,現在の自衛隊は精神的にも脆弱さが見える。災害時の出動も,「自治体の要請を受けて,総理大臣が決定しなければ動かない」という組織である。総理大臣にリーダーシップがない今の日本で,迅速な行動ができない。日本は,戦後の経済大国という唯一のバブルが弾けて,もはや方向性を失ってしまったようである。
夫婦,家族という最小限の「組織」の在り方にさえ,異論が挟まれるようになっては,正直,日本はバラバラになるしかないように思える。
今,日本をまとめているのは,過去の法律である。今問題になっている民法は,明治29年(1896年)に制定され,その一部改訂になったのは平成29年(2017年)である。戦後の平和憲法として制定された日本国憲法は,昭和21年(1946年)制定・公布である。いずれも,いわば昔のシステムがベースになっている。これでは矛盾をいろいろと議論しても当たり前だが,憲法も民法もそれをサポートするシステムがもはやなくなり,有象無象の議論と,なし崩しの行動によって崩れていきつつある。
やはり,国という組織をまとめるには,リーダーシップが必要だと思う。異論はあるが,アメリカはトランプ大統領が1つの方向性を出した。イギリスはかつてはエリザベス女王率いる王室が憲法だったが,王室もすでに崩壊し,国民からの敬愛も受けなくなり,リーダーシップも取れなくなっている。政治も混乱し,EUという組織からも脱退した。だれが率いていくのだろうか。
トランプ大統領が日米安保条約に疑問符を表明したことで,平和ボケした日本にもっと緊張が走ってもいいのではないだろうか。2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受けたにも関わらず,原水爆禁止世界大会にオブザーバー参加すらしない,いまだにアメリカの核の傘の下にあって,日米安保条約で守ってもらえると思っている日本政府のノンビリぶりが情けない。
日本国憲法の「平和」「権利」などにアグラをかいているのではないか。もっと自分たちで国という組織を守るべきではないか,と筆者は思うのだが,すでに子供のころからスマートフォンを与えられて,バーチャルの世界に半分生きている若者たちにとっては,国にオンブにダッコで自分たちの権利だけ主張して自分勝手に生きて,次の世代のことは考えない,という国になりつつある。その象徴が,この夫婦別姓,同性婚という生き物の基本のところで起きている崩壊だと思うのである。その判断をさらに裁判所という俗世間離れした組織で判定するという,さらなる矛盾が展開されている。もはや日本にはルールが存在しないようになってしまっているように見える。
現在の日本のこうした事情を踏まえて,その拠り所となるかどうかについて,もう一度「日本国憲法」をいちから作り直してはどうだろうか。やれ,第9条は違憲だのとこそこそと意見するのではなく,では自衛隊を機動的に動かせる憲法はどう表現すべきなのか,全面的に提示できる人はいないのだろうか。そしてその信念を主張し,リードしていくリーダーはいないのだろうか。
何が「立憲」だ,何が「共産」だ,何が「新選」だ。本当に今の日本に必要なリーダーシップを取れる人物はいないのか。結局は,今自分が所属する小さい組織のぬるま湯の中で声を上げているだけではないのか。やれ,戦争反対だの,核兵器反対だの,非建設的な運動はもうたくさんである。建設的かつ新鮮な未来像を描きたいものである。