インドとパキスタンの間の紛争がまたミサイル攻撃となり、多くの死者と怪我人が出た。
筆者はこの「〇〇人死亡」という報道がいつも気になる。人が人を1人でも殺すことは、許されないからである。
自然災害や事故の場合、死傷者数はその規模を測る基準になる。クルマの事故であれば、死者がなければ良かったと思うだろう。しかし、戦争や紛争での死傷者数は、明らかに意図的なものであり、攻める側からすれば死傷者数が多いほど成果があったことになる。これは人殺しである。
1人の人生にとって、理不尽に命を断たれることはあってはならないことである。災害の場合ですら、いや寿命を全うしてでさえ、命がなくなることは本人にとっても残念なことであり、周囲にとっての悲しみになる。しかし、人に殺されたり、さらに無差別攻撃の犠牲になった場合は、気持ちのやりどころがない。さらに相手に対して恨みの感情を一生持ち続けることになる。
動物は、食料を得るための殺生はするが、自分たちの邪魔になる相手には攻撃をする。しかし決して殺すことはない。自分たちの領域から追い出すために、少し痛めつけるだけである。人間だけが、相手を殺すという手段を使う。しかし一方で「話し合い」という手段も手に入れた。言葉を使い、妥協点を見つけ、譲るところは譲るという知恵を得た。
それでもまだ、一対一の肉弾戦なら力の強い方が勝つというルールもできるのだが、これが飛び道具になると「無差別殺人」となる。
飛び道具は不意打ちでもあり、正当な手段とは言えない。卑怯な手段である。その攻撃で命を落としては、もはや恨みしか残らない。
核兵器が戦いの抑止力になるのは、「使わない」ことが前提だからである。それは、かつてのアメリカとソ連という2大国時代だからこそ成り立った。しかし、核兵器保有国となったインドもパキスタンも、やけになれば核兵器を使わないという保証はどこにもない。
アメリカ、ロシア、中国の間は、政治理念の違いでの対立であり、話し合う方法を放棄していない。しかし、インドとパキスタンの間は宗教の違いによる対立であり、仲介の仕様もない。中東諸国の中の対立も宗教がらみである。
そういう意味では,すべて話し合いで解決するものではないことを,2025/2/28のトランプ大統領とゼレンスキー大統領の罵り合いのような会談が物語っている。しかし,その後も話し合いは続いており,4/21に亡くなったフランシスコ教皇の葬儀が行われた4/26の葬儀直前に両者がまさに“膝詰め”で2人きりで話し合った場面は,話し合いの力をこれまでにない強烈な印象で示したと思う。
なせ人間は殺し合うのか。もう一度考え直す必要がありそうである。