jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「戦後80年」はまた自己批判だけで終わったように見えた--世界平和へのアピールが希薄な日本

2025/8/15は,「終戦後80年」という節目の日で,例年どおりの戦没者慰霊祭が武道館で行われ,テレビ各局が特別番組を放送した。いよいよ戦争体験世代が人口の10%になり,体験談をどう語り継ぐか,聞いた体験談をどう今後につなぐか,という視点で,中学生,高校生の参加が目立った印象だった。

 戦争が,国力の競い合いだけでなく,民間人の直接的な犠牲を伴うほか,戦後に長く尾を引く貧困や家族からの離散,そして永遠に消えない戦争体験の精神的なトラウマ,さらに世界で唯一の原爆被災の影響は,誤解や差別も生んでいまだに影を引きずっている。「戦争はしてはならない」というメッセージは,戦争に負け,武力放棄した日本からのみ発信できるはずである。

 しかし,結局は広島・長崎の原爆被災,沖縄戦での犠牲,特攻隊の評価など,日本が負った側の視点でまとめられてしまっていた。現在も続くウクライナ紛争やガザ紛争を含めた世界平和に対するメッセージは,ほとんど発信されなかったように見えた。

 2024年のノーベル平和賞を受けた被団協にしても,核兵器禁止条約への批准問題にしても,世界からの注目度が低い。やはりどこかに「日本が戦争を始めた」「日本が仕掛けた戦争で自分たちが被害を受けた」と思っている国が,アジアを中心に欧米各国にそういう意識が残っているのを感じる。「戦争反対,世界平和を」と叫ぶ日本が,結局は武器を捨て,軍隊を捨てて「何もしない」ことが平和への道だと主張していることに違和感を感じているのではないだろうか。

 人類が戦いを放棄できるのなら,家の鍵を掛けなくても犯罪が起きない,ということにつながる。しかし現実は,鍵を掛けたとしても,窓を割られたり,配達や点検,営業を装ったりして,個人の家の平和はあっさりと破られてしまう。家の平和を守るための鍵に相当する「自衛隊」の存在が,平和を象徴できていないのと同様に,海外には映ってしまうのではないだろうか。

 結局,日本には「顔」がないのだと思う。また「日本人」という特殊な集団に対する恐怖感,違和感があるのだと思う。それはやはり言葉の障壁ではないだろうか。スポーツなどの共通のパフォーマンスにおいては,日本人の活躍についてそれほど違和感なく応援されても,言葉でのアピールに対しては行き違いが生じる。アメリカの15%関税措置に対する捉え方が違ったのも,言葉の行き違いであり,自分に都合よく解釈する人間の特性の結果でもある。

 ウクライナ紛争やガザ紛争が,アメリカのトランプ大統領のディール(取引)によって終結する可能性が見えてきた。ウクライナもロシアも,双方が「痛み分け」になるような条件だと思える。最終的に一方的に原爆を落とされて終結した第二次世界大戦とは違う結末になるのかもしれないが,双方にシコリは残るだろう。戦争を始めないことが大事であり,そのためには武装解除することが望ましいが,国レベル以外にもテロ集団は存在し,アメリカもその被害を受けた。

 人類が豊かになることが最終的な平和の道なのだが,そのために大量のエネルギーを使った結果,地球温暖化が進み,食糧危機,気候変動,他の生き物との共存の破壊など,別の面でしっぺ返しを食らっているという一面が出てきた。プラスチック抑制のための国際会議でも,結局は結論が出なかった。

 もはや人間同士の交渉では,結論は出ないまま,悲惨なシナリオを進むしかなくなっているように思える。筆者が提案してきたローマ法王天皇上皇からの平和メッセージも結局は機能しなかった。生成AIに答えを求める段階に来ているように思える。自慢の生成AIのそれぞれが出す提案について,議論をしてはどうだろうか。かなり破滅的な結論が導かれるような気もしないでもないが,何か見落としている糸口が見つかるかもしれない。