芥川賞・直木賞の候補作決まる 直木賞にオードリー・若林正恭さんも:朝日新聞 (2026/6/11)。筆者には小説を書く力がないし,書く時間もテーマも,さらにタイトルのイメージも浮かばない。しかし,最近の作品のタイトルを見ても,何か捻りすぎで作為を感じる。逆にやたらに長いタイトルが付いている作品を見ると,それだけでもう読む気が失せてしまう。もっとも,現在の小説はおろか,書籍の文字を読む気力もなくなってしまっている。
芥川賞や直木賞などの賞は,執筆のご褒美ではないかと思うのだが,受賞を狙って作品を作ろうという気持ちがどこかにあるのではないかと思うと,小説を書くこと自体の目的が何なんだろうか,と思ったりする。
小説を意味する英語のNovelは,語源の意味がnew(新しい)なので,新しいテーマや表現への挑戦といった意味を持っているようで,明確である。またFictionという英語もある。ノンフィクションが事実に基づいた物語だとすると,フィクションは作者が頭でイメージし創造した事実のない文章ということになる。ところが「小説」という言葉の中には,newというニュアンスもフィクションという意味もまったく見えない。
「小説」の語源や歴史の解説を読んでも,「作者が描きたい人間や社会を自由に散文で表現する」ものであったり,「君主が国家や政治に対する志を書いた大説に対する」ものだといった説明はある。しかし結局は,個人が書けば何でも小説になるということだろうか。
小説に対して「物語」という言葉もある。物語の英語はstoryであり,何らかの時間的な流れを感じる。物語を伝える「語り部」という言葉もあるので,事件や人の一生を語り継ぐ,といったニュアンスが感じられる。
現在の小説は,散文であり,虚構であり,想像の産物である。現実に起こった事件や経験がベースになっているわけではない。
このように勝手に分析していくと,今の小説はその内容は無意味であり,表現のテクニックの新奇性を競っているのではないかと思われる。つまり,ほぼありえないシチュエーションを考え付くという奇才と,表現力の巧みさの双方の能力ということで,それは確かに他の人にはない才能と言えるのだが,それがいくら並んでも「文学」にはなりえないと思える。
まあ,単に筆者が文章を読む能力がなくなってしまったことの言い訳なので,読み流していただきたい。