jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

お墓について考えた--先祖,ペット,そして地元をどう考えるか

今日,2022/9/27,我が家の末っ子になるトイ・プードルが,リンパ腫と診断された。明日から抗がん剤治療が始まるが,余命1~2年確率が50%と言われ,治ることはないと宣言された。2週間前に内視鏡検査で腸内に異常が見られ,かなりの確率でがんの可能性があると聞かされていた。生検でそれが確定したところである。

 子犬のころに子宮内膜症で全摘出手術をした後はお腹を壊すこともなく,腎臓薬は処方されていたものの元気そのものだった。いずれはお迎えが来るとわかっていたが,カウントダウンしなければならなくなり,さまざまな現実と向き合うことになっている。

 その1つがお墓である。筆者は関西出身で,いろいろな事情があって母方のお墓を任されてきたのだが,関西にあるそのお墓にお参りできるわけでもなく,ずるずると放置してきた。

 一方,今回の余命宣告により,ペットの死をどう迎えるかを具体的に考えなければならない事態に直面している。

 もともと筆者はイヌは苦手だったのだが,13年前に出会った2匹のイヌのおかげで,すっかり家族の一員として生活を共にできるようになった。まさかこの自分が,とも思うのだが,一緒にお墓に入りたい,という気持ちが非常に高く,ペットとの共葬ができるお墓をイメージしてきた。一般のお寺の墓は難しいが,樹木葬なら共葬できる,という話だけは聞いていた。

 しかし,いざ情報を調べてみると,なかなか条件は厳しい。樹木葬の対象が,ペットと共に暮らしてきた子供のいない家を想定しているようなのである。つまり,人間1人~2人+ペットでいっぱい,という構成が多い。ここにさらに人間の息子が将来入ったり,さらにその子供が入る,といった使い方ができないのである。また,先祖の墓を引き払ってもその遺骨を新しい墓に持ち込むことができない。

 一方で,普通の墓碑のある墓でペットと共葬できるところは非常に限られている。樹木葬では永代供養なのに対して,普通のお墓だと年間管理費がずっとかかる。先祖の遺骨は入れることはできるだろうが,ずっと関西にいた先祖が,いきなり関東の墓に移されるのを快くは思わないのではないか,と思うのである。

 お墓はお参りしてこそ価値がある。親の墓に子供家族や親戚が集まり,お互いの繋がりを確認する機会なのである。母方の先祖についてもほとんど情報がない。

 現時点では,関西の墓は墓仕舞いして無縁仏として預け,現在の筆者の地元である関東に新たにペット共葬可能な墓を作ろうかという考えを固めつつある。ご無沙汰している関西のお寺とどう話し合うか,また新規の物件が適当な場所で確保できるか,課題が山積している。

 奇しくも,今日2022/9/27は安倍晋三元首相の国葬が執り行われた日でもある。ここのところ,エリザベス女王ゴルバチョフ元大統領といった大物の逝去が続いている。筆者にとっては,末っ子が真っ先にお呼びが掛かった形になる重大事項である。いろいろな軋轢がありそうな気がするが,自分の順番を問題なく迎えられ,子どもたちが苦労しないように,真剣に取り組まなければならなくなっている。

行政府が独走すれば法治国家ではなくなる--ただちに「国民葬」に変更し,クラウドファンディングで費用を集めることを提案

裁判官も検察官も弁護士も,「法律」を根拠にした闘いを演じている。筆者は,この建前での議論と,条文の曲解が常に気になっており,法曹界に対しては基本的に全面的に否定的である。

 しかも,法曹の資格である司法試験に合格するために,最低6年,さらに長い期間を世間から離れた世界に身を置き,社会常識を知らずに法律家として世の中に出ていく。拠り所は六法全書だけ,という偏った知識で,納得のいく判決が出されるのを期待する方がおかしい。弁護士も,金を積まれれば黒を白と言ってしまうのが仕事である。お客様の都合のいいように解釈を展開し,無罪を勝ち取る。実にあさましい商売である。

 それでも,判断の基準となる法律がそこにあることが,判断が揺らがない1つの大きな味方になっている。これが司法である。

 ところが行政府は,通常は何をするかを提案し,これを国会という立法府で議論した上で決定しなければ,執行はできないはずである。

 安倍晋三元首相の国葬が,今日2022/9/27に執り行われる。これは行政府が閣議決定した行事である。立法府である国会での議論も投票もなく,一方的に決定して進めている。これは,国会が内閣に対して不信任決議案を提出してでも議論し,採決すべきテーマであると考える。

 日本は法治国家である。正直,「法律の条文をいかように解釈しても自由」という点が裁判制度における欠点でもあるし,「法律がなければ何をしてもいい」という逆説もありうるが,少なくとも法律という1つの基準を持っている。国葬に対する法律の取り決めは戦後なくなったので,天皇以外は何となく曖昧な「国に功績のあった人」といった表現で決めてしまっているようだ。

 また,前例主義に基づいて,吉田茂元首相の国葬にならったという言い方もできるが,これも明確な説明がない。

 安倍元首相が非業の死を遂げたから,という理由も,逆に言えば「日本でも暗殺事件は起こせる」という事実を追認し,「安全安心な国」というイメージをぶち壊した事件として,国葬という名の基に永遠に歴史に刻まれてしまうという不都合があると考える。

 信念を曲げない,という強い態度は結構だと思う。人の意見を聞いて,ある程度方向修正するという姿勢も評価できる。しかし,法治国家において法律がないからといって立法府での議論もせずに行動するというのは,やはりおかしいのではないか。自分に都合のいいように法律を変えてしまう中国やロシア,そして唯一の絶対権力としての大統領制を持つアメリカと同じように独走してしまっているのではないか。これでは権威主義国家と同じではないのか。日本の首相には,それだけの権限は与えられていない。

 武道館の前に掲げられた「国葬儀会場」という墨文字で書かれた巨大な横断看板も,見方を変えればまったくインターナショナルではない。国粋主義を感じさせる。海外からの要人にも意味不明である。葬儀,献花が執り行われることを止めることはできないが,その定義を国葬からたとえば「国民葬」に変える,さらに経費は税金からではなく,クラウドファンディングで集める,という形に変更すれば,非常に現代っぽくなって世界に評価されると思うのである。

女性がマウントを取るには、知識と資格と信念、そして腕力と脚力が必要

女性の社会進出について何度も考えている。先日は、東大ミスコンテストの歴代優勝者のその後が番組になっていた。

   そもそも、ミスコンが東大で行われていることが、時代錯誤である。信じられない思いで見ていた。

   卒業後の活躍ぶりを見ても、はっきり言ってパッとしない。まあ、男性でも世の中での有名人になるのはわずかだし、大学の名前が功を奏する訳でもない。しかし、ミスコン優勝という冠がマイナスに働いているようにも見えた。

   何度も言うが、東大に進んでまともな人生は送れない。それは、東大がトップではないからである。日本では一番持ち上げれているが、所詮は地方で1位であるに過ぎない。

   かつて東大卒は日本を動かしたのではないのか。今や、ベンチャーに横滑りして金儲けしたり、クイズ王に横滑りしてお笑いタレントになったりしているだけである。政治家にも官僚にもならない。理IIIに行きながら医者にもならない。

   さて、東大卒の女性ですら、世の中のトップにはなっていない。何のために東大に行ったのだろうと思ってしまう。せっかくの切符を持てたわけだから,その知力と意欲を世の中で活かしてもらいたい。しかし,女性にとっては,まだまだ社会進出のハードルが高いのも事実である。

   女性の社会進出には、知識も理性も必要だし、これを保証するために資格は必要である。医者でも弁護士でも何でもいい。そして、自分の理想を貫けるだけの信念も必要である。

   とここまで書いて、まだ足りないものを感じた。それは、力でマウントしようという男性をどう押さえるか、という課題である。理性のない男ほど厄介なものはない。理屈も理論も通じないからである。

   ここは、ある程度の腕力が必要と感じた。無理矢理マウントしてくる男の最後の一瞬で逆転する必要があるからである。

   かつて、自分の家族に娘が加わったとき、自分の命を守るために護身術や空手を身に付けるべきだろうと思っていた。近くに道場もあった。結局、通うことも近づくこともなかったが、心の鍛練という意味でも参加すべきだったかもと後悔している。

   テレビドラマを例に取れば,刑事モノ,医療モノなどにおいて,資格と腕力の必要性に気付かされる。いずれも肉体労働であり,相手(犯人,患者)を押さえつける腕力や逮捕,手術という腕力も現実問題として必要だし,さらに男性社会の中で孤軍奮闘するための腕力も必要と見た。女性中心の看護師,介護士の世界でも,相手を扱う腕力,限られた時間内に処理するための判断力や走力も必要になる。だれよりも真っ先に駆けつける,仕事に必要な荷物は自分で運ぶ,そのレベルの強靭な身体は必要である。重いから仲間に手伝ってもらうといった甘えが見えると,そこでもう終わりである。

 さらに,これこそハラスメントなのだが,男は大声で汚い言葉で相手を罵倒する。男の自分でもストレスを感じることがあるのに,まして女性が相手の場合は完全に勝ちに行こうとしてマウントしてくる。これを冷静に跳ね返すだけの凛とした態度,感情に訴えずに理性で押さえる理論力,そして周りを自分の味方に付けられる合理的な説明力が必要である。

   しかし,いったん人や組織を管理する側に立ったときは,柔軟な対応も必要になる。部下にやる気を発揮させるのに理論だけでは通らなくなる。信頼関係をいかに構築するか,そこには周りの意見を聞いて最適な判断を下す能力が必要になる。

 かつては「ちょっと一杯」というノミニュケーションの文化が男性社会ではあったが,男女平等社会ではなかなか実現は難しい。男性側の理性が減退してハラスメントに発展する可能性が高いからだ。「喫茶店」という文化も死語になっている。ややこしい世の中になったものである。差し入れとかお茶会とか,そのレベルでホンワカと行われるのがいいかもしれない。そういう雰囲気を醸し出せるのは,女性リーダーの特権でもある。

 自分の夢の実現のために,女性の場合は犠牲を考えなければならなくなる可能性がある。仕事を人生とするには,100%サポートしてくれるパートナーが必要になる。仕事の中身をよく理解してもらえる同業のパートナーの方がやりやすいかもしれないが,逆にライバル関係になるとややこしくなるかもしれない。子供ができると,その育て方についての意見が一致するとは限らない。そういうときに男は必ず仕事に逃げる。そのストレスを間違いなく受け止めなければならなくなる。

 女性リーダーは,ある意味で孤独である。2022年9月8日に亡くなったイギリスのエリザベス女王も,息子のチャールズ新国王の家庭のことでは悩まされた。さらにチャールズ新国王の前妃であるダイアナ元妃の2人の息子(つまりエリザベス女王の孫)にも気を遣われた。ニュージーランドのアーダーン首相が,産休を取得したことが大きく報じられたが,それぐらい世界でも例のないことである。

 テレビのサスペンス系ドラマでも,女性の主役が独身か離婚経験者かという設定が多いように思う。結婚していても,夫が子煩悩とかマスオさん的に描かれることが多い。しかし,現実社会ではほとんどありえず,特に日本は皆無に近いと思う。

 正直,昨今のオカマタレントの台頭も気に入らない。かつてはピーター,美川憲一美輪明宏ぐらいだったが,今や人気ランキングが出るほどゴロゴロと輩出している。それもかつての場末歌手からの台頭ではなく,オカマバーや話芸などのエンタテインメント系であり,ほとんどがお世辞にも美しいとは言えない。「女性としてマウントするには,こんな迫力がいるんだよ」とでも自慢げに言っているような気がする。結婚という障害もない。自分1世代だけ自由に生きればそれで済むという気楽さも感じられ,気に入らない。

 しかし,ひょっとしたら女性としてマウントを取る1つのパターンとして検討してもいいのかもしれない。まあ,あそこまで自分を捨てる必要はないとは思うし,女性としての魅力を発揮する場面も必要だと思われる。反面教師として,研究してみてはどうだろうか。

洋式便器の大きさはおかしくないか--便座の高さ,前後位置を動かせる機能が欲しい

トイレといえば,洋式便器となった現在である。筆者の実家も,もともとは和式便器と男性用小便器のセットだったが,大幅なリフォームで洋式便器1基に集約された。

 男性の小便は立ったままするものだと思ってきたので,洋式便器になっても立って用を足すという習慣は消えていない。

 ところが,男女共用で1基の洋式便器に集約されるようになり,男性用小便器が絶滅危惧状態になっている現在,洋式便器での男性小用を,便座に座って用をたすように指導されるケースが増えてきた。

 我が家も洋式便器のみである。筆者はこれまでの習慣で,立ったまま小用をたしていたが,西暦2000年前後に生まれた自分の息子に最近聞いたところ,母親からは便器に座って小用をたすように指導されているという。 

 男性の小用については,NHKの「ためしてガッテン」で詳細な分析が放送されてビックリしたことがある 家族が涙!トイレ問題 大解決SP - NHK ガッテン! 2015/9/2放送。Webサイトに情報が残っていたことにも驚きだが,「その法則とは…、『12cm以内』におしっこを壁面または水面にぶつけること。」という記録も残っている。

 男性小便器では1歩前に,洋式便器では便器に座って,というのが,飛び跳ねを防ぐ方法だという結論なのだが,男性小便器の場合は理解できるのだが,洋式便器ではずっと疑問に思っていた。

 便器に座った状態は,イラストにあるようなものである。これに断面をイメージしてもらいたい。まず便器側だが,たいていは大便側(後ろ)は深くなっているものの,小便側(前)は浅い斜面になっている。次に人間側だが,もう少し後ろに座っているにしても,男性にとっては小便側(前)の空間がかなり狭いと感じているのである。

 タンクに向かって前向きに便器を跨いで(またいで)用をたせば十分な空間があるのだが,この態勢で小用をするには,ズボンの片脚を脱がなければ跨ぐことができない。自宅ならともかく,出先や公衆トイレでは服が汚れる可能性もあるので,片脚を脱ぐことはできない。

 この話を冗談のようにすると,否定されることも多い。正直,自分のサイズが特別なことはないし,世の中にははるかにスペシャルな人も多い。普通に大便で用をたす場合も小用は出る。小用の際に便器に深く腰掛ければいいかもしれないが,今度は便器の小便側(前)の斜面との距離が微妙になる。

 40年前に初めて海外旅行をしたときに,イギリスの空港で使った洋式便器にはびっくりした。まず,座面の高さが日本標準より5cmは高い。便座に座るとかかとが床に着かなくなった。さらに便座の開口部も広く,普通に座るとお尻がズボッと落ち込んでしまいそうになった。しかし,小便側(前)には十分な余裕があった。外国の人の体型の大きさに合わせたものだと理解していた。便座も,O型ではなくU型で,男性にも配慮されている感じだった。

 インターナショナルな時代である。日本のホテル客の8割は外国人だろう。それに合わせて洋式便器が大きくなったのだろうか。資料によると,便座設置穴から便座の先端までの長さに2種類あり,エロンゲートサイズは47㎝前後,標準サイズは44㎝前後で,現在発売されている便器のほとんどはエロンゲートサイズだという。ウォシュレットなどの温水便座を取り付けるには,エロンゲートサイズが必要だからである。

 しかも,温水便座はO型の方が設計上も有利である。強度,配線,成形などの点で,現在はほとんどがO型になっている。

 サイズも形状も,いろいろな配慮が進んでいるようだが,それでもまだ十分とはいえないような気がする。フタの自動開閉まで機能を追加する日本メーカーである。レバー操作で便座の高さや前後位置を動かせるような仕組みがあってもいいのではないか。ここは自動車部品メーカーやオフィスチェアメーカーも協力してはどうだろうか。

NHKアナウンサーの配置に不自然さを感じるのは思い過ごしか

筆者は基本的にNHKから情報を取得している。朝も、起きてすぐにテレビをつければ、疑うことなく1チャンネルにする(関東在住)。

   今朝は、リモコンの「1」を押してチャンネルを変えようとしたら、それが1チャンネル、つまりNHKだったので、びっくりした。いかにも民放で出てくるような若い女性同士の掛け合いによるニュースだったからである。

   考えてみれば、2022年4月の番組編成替え以来、ベテランのアナウンサーや編集委員がニュース画面から消えた。

   そしてこのベテランアナウンサーの姿を、NHKのニュースアプリや防災アプリの宣伝と、引っ越し時の受信料案内や家族割の案内でしか見かけなくなった。

   夜のゴールデンタイムのキャスターを務めていた男性アナは大阪局でニュースアナをしている。この時は個人的な左遷と噂されたが、ほかの人事は一体何だろうと疑ってしまう。派閥抗争か、はたまた連帯責任か。単なる若返りだけではない異様さを感じる。

   むしろ、かつてNHKにいたのアナウンサーや解説委員が民放局で平気な顔をして出演しているのを見るとはらがの立ってくるのだが、NHKの人材に魅力がなくなっているようにも感じる。もちろん、NHKの民放化についての懸念は、ずっと以前から指摘してきた。

 ニュース読みにAIによる自動音声が取り入れられたのも同じタイミングである。かつての棒読みの自動音声と違い,実に自然になっている。ディープフェイクといわば同じ技術なのだが,読み間違いもない。そのうちアナウンサー自身もアバターとなる日がくるかもしれない。どこまで自然になるかが問題だが,技術はいずれこれを実現してしまうだろう。

 多くの仕事がコンピューターに取って代わられるだろう。テレビという空間が,すでにバーチャルなのだが,現在ではまったく違和感なく使っている。そういう日が来るのである。しかし,生身で会ったり話したりすることの重要性は変わらない。そういう仕事を放送関係者は生み出してほしい。

革靴は人生を狂わすという仮説--これは身体に対する拷問だ

社会人になってから30年,毎日革靴で出勤していた。20歳台から50歳台まで,人生の半分を革靴で過ごしてきた。

 オフィスではサンダル履きだった。革靴の中が暑くなって蒸れるのが嫌だったからである。社員の半分は理系出身者で,大学の研究室ではたいていサンダル履きだったこともあり,社内でもサンダル履きが許されていた。一方,残り半分は文系出身者で,こちらは頑なに革靴を一日中履いていた。

 2005年に始まったクールビズで,ノーネクタイとカジュアルウエアとなったが,靴はさすがに革靴だったし,ネクタイは常に準備していた。

 50を過ぎて早期退職し,転職してからは,フェイクな革靴を履いたり,ウレタン底の革靴を履いたりしていた。そのうち,黒ベースのスニーカーを履くようになった。

 スニーカーの方が通気性が良く,蒸れや熱のこもりが少なくて楽である。足が靴の中である程度自由に動くし,足先も曲がる。水濡れには弱いが,濡れた床面では革靴より滑りにくい。

 確かに,革靴の方が耐久性がある。そのままでも長く使えるし,ちゃんとした靴なら靴底を張り替えることでさらに長持ちさせられる。それでも,表革のメンテナンスはそれなりに必要だし,傷がついた場合もその修復には費用がかかる。

 スニーカーは使い捨てにはなるし,その都度同じ履き心地の靴に出会うという保証もない。

 スニーカーの一番のいいところは,ヒモで足の固定具合を自由に変えられる点である。通常は,足の形に沿ってヒモを締めればいいし,しっかり固定することもできるが,筆者のオススメは足先を少し緩めにして足先が自由に曲がるようにすることである。

 革靴で足先を曲げて背伸びすることはできない。つま先立ちになってしまうだけである。スニーカーだと足先が曲がるので,背伸びができる。革靴を履いていたころには気が付かなかったが,足先で背伸びをして体重を支えることや,足先に力を入れて歩いたり階段を上り下りすることで,脚や膝の関節や筋肉の使い方まで変わった。

 高齢期に入って,重要なのはロコモーティブである。脚の筋肉は確実に衰えてくるし,関節の不調も増えてくるだろう。食事やトレーニングも必要だが,普段の生活の中での歩き方にも注意するポイントがありそうである。人生の半分,その大事なことを見失ってきたような気がする。しっかりと脚と足,そして足の裏の感触を意識しながら歩くことが,大事かなと悟った次第である。

 一般的な革靴には反対だし,職人技で1足何十万円の値段で売っている人もいるが,本当にその価値があるのだろうか。特に,女性の靴が足を拘束する具合が中途半端ではないことに,懸念を示したい。外形ばかり気にしていても,結局外形だけで判断されてしまう世の中である。慣習にとらわれない生き方をしたいものである。

一般参加で12時間でも並ぶエリザベス女王の国葬--方や、招待状6000枚で一般国民が会場に入れない安部元首相の国葬

エリザベス女王国葬が明日2022月年9月19日に行われる。国民も参列できるが、24時間待ちという。ベッカムでも12時間、一般国民と並んで参列したという。参列者は、内外合わせて100万人になるという。

   方や、安部元首相の国葬は9月27日の予定だが、招待客が6000人で、しかも出席を断っている人も見かけられるので、実際は4000人ぐらいが会場に入るかと思われる。

   一般国民は、武道館の外(どうも北の丸公園にすら入れず、九段下公園に設置されるだけらしい)に置かれた献花台に自費でもちこんだの花を置いておしまいという。警備も厳しく、そもそも北の丸公園の4つの入り口できびしくチェックされる。哀悼の意も何もかも吹っ飛んでしまいそうである。

   これも、東京オリンピックのときと同じで、強行されるのだろう。ここでやめて、すでに準備などで使った4億円は仕方がないとして、残りの12億円を国民のために使ってほしい。何だか、森友学園で受けた損失の埋め合わせに使われるような感じで、極めて残念である。

   さて、当日はどんな雰囲気になるのか、今から予想してみたい。

   まず、マスコミ各社だが、取材、報道として、例のごとく、大型のテレビカメラを据え、肩載せハンディカメラもあちこちにうろつくだろう。望遠レンズを付けたスチルカメラを持った報道カメラも多数並ぶだろう。

   さらに、上空には各社のヘリコプターが飛び交うことになるだろう。会場の中は静かだが、一歩外に出ればカメラのシャッター音のシャワーとヘリコプターの爆音、そして警官のメガホンによる案内や規制の声が飛び交う。とても厳粛な葬儀にはならないだろう。

   さらに、お堀を挟んだ対岸には、国葬反対派が大声を挙げたり、騒ぎを起こしたりするだろう。街宣車も出てくるだろう。こちらも騒がしいこと限りない。

   ついに、自民党からも欠席者が出た。この週末、国連演説から戻った岸田首相は、すぐに国葬から党葬に変えるべきだろう。何度もいうが、これは世界への恥さらしになる。