jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

リアルがある限りAIは人間には勝てない--しかしAIに勝つためにはリアルを捨ててはならない

AIは,世の中の情報を収集して,そこから何らかの結論を導き出して提示している。インテリジェンスというだけに人間にたとえると,入力情報として言葉,風景などの映像を目や耳などの感覚器からインプットし,インターネットでつながったあらゆる情報が脳の中の知識情報であり,出力として文章や画像,映像などが生成されている。

 言葉や映像の情報をインプットするのは相変わらず人間だが,その後,どの情報が適していると思われるかの判断は,AIが何らかのランキング付けをして出力しているにすぎない。

 世の中の調査機関やマスコミが,「100人に聞きました」「1000人に聞きました」式のアンケート情報を元にクイズや情報番組を作ったりしている。結果としては獲得数の多い順に「支持者が多い」「賛成」という結論となる。結果として出されるランキングは,開いて見れば「常識的」な結果であり,「納得できる」内容である。その開くまでの過程を楽しませるのが番組の狙いであり,いかに最後まで視聴者を引き付けるかという「じらし」の演出が,企画者の最大の腕の見せ所である。視聴者も,忘れていた情報が登場する驚きがあったり,全然見知らぬ情報に新たに刺激されたりする。推理小説の最後のどんでん返しのような面白さが,番組の生命である。

 一方,その100人の好みのランキングそのものには,ほとんど意味がない。1位が2位より優れている,ということもない。どちらが1位になっても別に問題はない。ただ情報を集めて整理しただけである。「幅広い年齢層の男女に聞いた」と言えば「公平性」も担保されているように見える。しかし,それが国民の総意とまでは言えない。

 AIの厄介なところは,この中間プロセスが完全にブラックボックスであり,どこから情報を取得してきたかが不明確であり,しかも「AIにとってのランキング1位」を「正解」として出力する点にある。もちろん,複数の出力を用意したり,再度同じプロンプトを入れるとまったく違う答えを出力する可能性がある。

 世の中の情報には,同じ事柄に対して人によって解釈も考え方も異なる答えが存在する。「十人十色」と言われるように,人によって最適な考え方と答えがあり,それは他の人にとっては受け入れられなかったりする。国,思想,宗教などは,こうした多様性の結果生まれている。

 一方,科学は「1つの結論が正しい」ということを追究しようとする。「算数」だと答えはあるが,「数学」になると答えが得られず,これを追究するのが「学問」だということになる。

 しかし,AIが扱っている言葉や画像・映像は,科学ではない。1つの答えを出す対象ではない。つまり「科学ではない」。どんなに処理速度を上げようが,どんなに情報を多く詰め込もうが,それは「特定のリアルな誰かが残した言葉や画像・映像」を組み合わせただけで,AIが人格を主張することはできない。

 たとえば筆者は,戦後の平和で経済成長で豊かになっていった楽しい時期を満喫したため,これが人類の理想だ,という個人的なベースの考えがある。それぞれの国がケンカをせず,多様な発展をすることで,世界中が豊かになっていくのが理想だと思ってきた。実際,日本ほど平和で,気候も穏やかで変化に富み,世界中の食べ物が食べられ,きれいで速くて,楽しい国は,他にはあまり見かけない。中国に匹敵する長い文化を持ち,それを維持しつつ,世界に向けて生活を豊かにする製品を発信し続けてきた。

 しかし,かつての日本もそうだったように,貧しく,他国を羨んで侵略しようと考えたり,相手の考えを受け入れなかったりする国が,世界の大多数にある。選挙すら,腕力で相手を引きずりおろし,有権者の投票を妨害するようなことが堂々と行われている国もある。

 現在の世界の紛争状態について,西側と東側で答えはまったく逆さまになるだろう。仮にAIが「1つの答え」を出すとすると,それに従えない人が半分はいるということになる。

 国には「法律」というリアルな基準を定めることにより,考え方の基盤を作られている。その法律にも多くの矛盾点が生じて来て,改正が繰り返される。しかし,政権が変われば,法律もその解釈も変わってしまう。

 しかし,AIが判断材料にしている情報には,リアルな基準がない。つまり,「何の自分の思想もないモノが,適当に情報をつまんで来て,結論として提示している」というまことに恐ろしいシステムである。

 AIが出した結論を,人間がある意味で「正しく」判断するには,「何を正しいモノとして認識しているか」という「リアル」な体験が必要なのだと筆者は言いたい。

 今,こうしてワープロで文字をタイピングしているが,かつては鉛筆で紙に文字や文章を書いてきた。その経験があるからこそ,悪筆の筆者でも堂々と主張できるツールとしてのこのワープロ技術を称賛しているのである。もしAIが今,眼の前で勝手にタイピングを始めたら,筆者はそれはコンピュータの暴走だと思って電源を切ってしまうだろう。

 筆者の時代は,映画と本しか情報源がない時代に,テレビという情報源が加わり,これが自分の根幹にある。知らない土地や微小な世界を捉えて,家に居ながらにして新しい情報を知ることができるテレビやその入力装置であるカメラ,ビデオなどに触れることが喜びだった。これにさらにコンピュータが加わり,自分の興味の世界が拡大した。

 しかし,今は生まれてすぐ横にテレビがあり,スマホがあり,パソコンがある。何もしなくてもいきなり「家にいながら」あらゆる情報が入ってくる。リアルな世界を知る前にアニメや音楽が目や耳から飛び込んでくる。何か自分の基準が形成される前に,大量の情報にさらされてしまい,判断ができなくなっているような気もする。

 「多様性」が重視され,誰もが自由に生きることが重要だと言われる。しかし,多様性と無秩序はまったく異なるものだと思うのである。あくまでも1つの基準の下にさまざまなあり方が認められるのが多様性であり,基準から大きく逸脱することは秩序の破壊につながる。

 世界情勢は今,多様性を飛び越えて無秩序な状態にまた戻ってしまいつつある。国連という多様性を受け入れていた国際機関が,世界のルールを決めることができなくなっている。

 同様にAIも無秩序な中で動かされているか,あるいは1つの偏ったルールの中で動いているか,でしかない。何が正しいかというリアルの判断をAIはできないからである。そのAIの出した結論を判断するのは,リアルを知っている人間である。

 人間には,リアルな体験が必要である。家族,学校などの社会集団の中での活動から,自分の手を動かし,頭を使ってモノを作り,逆にモノを壊し,そのリアルな感覚を手や目,耳,鼻などの五感で感じ,どこまでが許容されるのかと体験しなければ,常識というものは生まれない。

 

確定申告のデジタル化を振り返る--あとはマイナンバーカード認識方法の改善に期待

2024年3月15日,「令和5年度確定申告」が締め切られた。筆者にとっては,今回の確定申告ですべてのデータがリンクしてPC上ですべての手続ができたことになる。

 年金関係のリンクは,2年前に完了しているし,生命保険の控除申請もリンクできていた。住宅ローンを支払い終わったために火災保険,地震保険を新たに契約し,その控除申請リンクを今回完了した。給与の源泉徴収個人年金の雑費処理が紙ベースで残る以外は,すべてe-taxとマイナポータルの仕組みでデジタルリンクできたことになる。

 この地震保険のリンク申請で数日かかったことを除いて,今回は2回の週末に集中して作業することで確定申告が完了した。それぞれのデジタル処理が正しいということが前提だが,申告ミスや申告逃れはできないことになる。

 息子は就職して年末調整で済むはずだったが,大学時代の最後の3ヶ月のアルバイトの収入の申請が必要で,今回は確定申告をすることになった。細かいアルバイトの支払い額と源泉徴収額が,バイトの斡旋アプリでデジタルデータとして取得できる仕組みになっているのは驚いた。あとはe-taxで送信するだけだったのだが,なぜかマイナンバーカードのパスコードが誤入力によるロック状態になっていた。

 プリントアウトして郵送することもギリギリだが可能そうだったが,いったん途中保存していたデータがe-tax申請用となっているようで,郵送申請に切り替えることができなかった。たまたま市役所に近いところで働いていたため,窓口に出頭してロック解除し,翌日の朝,最終日にe-taxでの送信に成功した。

 筆者の確定申告の歴史から言うと,まず国税庁の「確定申告書等作成コーナー」がなかった時代から始まる。税務署から申請用紙を郵送してもらい,入力する項目1つひとつの情報を集め,手書きで記入して行った。記入後,控除額の大小,段階的な税率の%の確認などを電卓で計算し,最終的な税額を計算した。申請のために税務署に出頭すると半日有給を使う必要があり,簡易書留で送付していた。

 翌年,この手計算が嫌だったため,Excelでテンプレートを自作した。所得や保険など,それぞれの項目をExcelのSheetで設定し,それを最終シート上で統合することができ,作業は一気に進んだ。計算間違いもなかった。異常値が出ると入力ミスがすぐ分かった。シートをプリントアウトし,申請用紙に手書きで転記して,やはり郵送で提出した。

 国税庁の「確定申告書等作成コーナー」ができてからは,その計算内容がブラックボックスな点は気に入らないのだが,基本的にその仕組みを信じて入力し,結果を計算した。電子申告には「住基カード住民基本台帳カード)」を使った。この住基カードをPCで認識させるために,指定のカードリーダーを購入した。当時はドライバーソフトをインストールするなどセットアップは結構たいへんだった。 

 住基カードが廃止され,マイナンバーカードに切り替わる際,このカードリーダーが使えるのかどうかは,非常に心配だった。結果的には引き続き使えた。その後,PCが変わったが,ドライバーを入れることなく,引き続き使えた。

 現在のスマホによるマイナンバーカード認識の面倒さには辟易している(マイナポータルへのアクセスに不満--毎回カードをPCカードリーダーやスマホで認識する必要があることが不便【追記-いずれもカードなしで使える方法にアップデート】 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2024/2/12)。今回,息子のマイナンバーカードでのパスコードロックとその解除のための市役所窓口出頭,さらに5年ごとの更新もまた市役所に出頭しなければならない。

 現在進められているマイナンバーカードのスマホアプリ化で,どれだけ改善されるのかはまだ試していないが,そもそもスマホアプリ化ではカード化の意味がない。偽造防止のために,少なくとも物理的なカードにICチップを埋め込むという現在の方式は,最低限必要だと感じるからである。

 クレジットカードの更新と同様の手軽さに加えて,顔写真の更新にAI技術を活用して偽造認識すれば,デジタル的な更新もできるはずである。どうも,総務庁,デジタル庁など,政府関連のデジタル化は,考えが古すぎるように思える。

少子化問題への2人の評論家の意見がいずれも的外れ--古市氏,堀江氏,カネと地位を得た評論家の戯言である

少子化問題をめぐって,超売れっ子の評論家がコメントした記事が載っていた。社会学者の古市憲寿氏のコメントは古市憲寿氏「日本では第3次ベビーブームが起こる可能性がありました」 (msn.com)で,政府の対策がピントはずれで,「男女が共に働きながら育児をしやすい環境と雰囲気を整えていたら」少子化がもっと穏やかに進んでいたとコメントした。これに対して,実業家の堀江貴文氏は,ホリエモン 少子化問題、古市憲寿氏の政府が「ピントがずれて」いる説に疑問「金の問題なんかなぁ」 (msn.com)とコメントし,「結婚、子育てしなくても楽しいこと増えたから」だと自説を展開した。

 筆者にしてみれば,2人とも裕福な環境にいるからこその的外れなコメントにしか見えない。そもそも,古市氏は現在39歳で独身,堀江氏は子供1人とのことで,自身が再生産の法則を破っている。そんな人達に,少子化についてコメントする権利はないと筆者は考えている。

 1947年から1949年の」第1次ベビーブームは,戦後の帰還兵の結婚と高度経済成長によってもたらされ,このベビーが結婚適齢期を迎えたころに第2次ベビーブームが起きた。1971年から1974年はまだ経済が成長していたころである。しかし,再生産のための出生率2.0人を超える数字ではなく,その後も出生率は低下を続けている。そもそも第3次ベビーブームなど起こりようがなかった。たしかに,女性の社会進出が進み,共働き家庭も増え,DINKS(Double Income No Kids)で子供なしで自分たちの生活を楽しむという裕福な家庭も話題になった。

 しかし,バブルが崩壊した1991年以降,上場大企業の倒産,定年性の崩壊など,戦後の経済成長を支えた企業体系が崩壊し,長期にわたって安定収入を得られなくなった人が増えた。

 収入が安定しなければ,結婚して家族を作るという余裕もなくなり,さらに夫婦2人が最低限の再生産数である子供2人を作る余裕もなくなった。

 日本は,戦後の経済成長で世界で一人勝ちし,経済復興のモデルケースと称賛された一方で,恨まれる一面もあった。「護送船団方式」などと経産省の保護政策が批判され,政府も企業もさまざまな歯車が狂った。結局,モノづくり産業,輸出産業が崩壊し,大手金融業,生命保険会社も破綻し,怪しげな投資会社と仮想通貨を運用する怪しげな金融会社などが台頭し,その他の多くの企業がほとんどがブラック企業になり,正規雇用なしで社員のことなど考えない経営者ばかりになった。

 かつては,就職することで社会的地位を得,安定した収入を得られ,これに対して会社に忠誠を尽くし,ガムシャラに働いて業績を伸ばし,さらに会社の発展に貢献するというプラスのスパイラルがあった。

 しかし,長期の安定した経営ができなくなった企業では,正規雇用もできず,安定した収入も与えられず,経験を積むこともできず,転々と職場を変わるような社会になってしまった今では,結婚など夢であり,まして子供を授かって責任を持って育て上げることもできない。

 政府の対策を指摘するなら,技術流出を招いた際の他国のやり方が一枚うわ手だったとも言える。韓国は財閥,台湾,中国は国家が,選択と集中でモノづくりに特化して投資した。これに対する日本の見過ごしが失敗だったと言えるかもしれない。おカネの掛け方が下手だったとも言える。

 モノづくり技術がなくなり,汗水流して働くことに価値を覚えなくなった日本人にとって,安心して結婚して子供を設けて平和に暮らせる生活を取り戻すには,まず外貨を稼げる産業が何かを見直し,それに見合った収入を得られる仕組みを作る必要がある。

 今世界が必要としている「モノ」は何か。それはエネルギーと食糧だと考えるからである。しかしこれに加えて,ひょっとしたら次の混迷の時代を考えると,日本にとっては防衛技術開発,世界にとっては攻撃技術開発も必要かもしれない。

 今のAI産業やアニメ産業,観光産業などは,外貨を稼げない単なるバブル産業に過ぎない。技術的にもフローであり,ストックにならないのである。投資に対するリターンがない。永続的なものではなく,一過性の収入でしかないからである。

 まず,じっくり足を地面に付けられる産業は何かを考え,それを国を上げてサポートしなければ,日本という国そのものが崩壊してしまうのである。

 ましてや,学者や評論家など一過性の典型的な仕事は,単にその国の中で収入を得ており,外貨獲得に何の役にも立っておらず,返って日本の内部留保を減らすだけになっている。自分の立場が安定しているからこそ,他人事のようなコメントが言えるのだと思う。以前から何度も指摘しているが,意見・コメントを言うだけで何の提案もしない政治家,評論家,学者は,百害あって一利なしの存在である。さらに,これらの著名な評論家の意見・コメントをただ単純に伝えるだけのマスコミ,ネットメディアの無能ぶりにもあきれたものである。

 筆者はもちろん戦争には大反対である。したがって,軍需産業を支持しないし,まして次世代戦闘機の輸出についても反対である。仮にこの戦闘機の輸出を認めたとしても,日本国民の生命を守ることにはまったく繋がらないからである。

 しかし,国民の生命を守るための防衛技術の開発,そして当面のシェルター建設への投資には賛成する。また,有事に人口集中を分散させて国民の被害を減らすためのセカンドハウス政策の実施もぜひ進めてほしい(テレビ番組のJアラートジャックで,いろいろな状況が見えてきた - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/11/3)。

 ロケットをまともに飛ばせないのなら,レーダー,ビーム兵器,電磁撹乱兵器など,“バリア系”のシステムを持つべきだろう。インターネット経由のサイバー攻撃に対するバリアシステムも開発すべきだろう。そのいずれも,今はまったく丸腰状態である。これでよく日本を預かる政治をしているものだと思う。

 おそらく平和ボケな時代は終わり,またまた戦乱の時代に入りそうである。2024年 11月5日に実施予定のアメリカ合衆国大統領選挙で,世界情勢が一変する可能性がある。そのときまでには間に合わないかもしれない。今の政府では日本を守れないし,今の野党の考え方でも,日本国民を守ることはできない。少子化政策などという小手先の政策について云々しているようなレベルの話ではない。

【追記】コメントを書いていたら,次のようなとんでもコメントを見つけた(「結婚を避け、子供をもたない」ほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化" (msn.com))。精神科医の熊代亨氏のコメントである。精神科医がこんな精神では,まさに日本は終わりである。

大きな男は危険、細い男は心に問題--周囲に対するちょっとした心遣いがほしい

大リーグのドジャーズに移籍した大谷翔平氏の結婚報告が詳細不明のまま突然発表された。ドジャーズの公式Xでパートナーと並んで写された写真も公開されたが,依然として詳細不明。そして開幕戦が行われる韓国入りをした2024/3/15に,パートナーと並んで入国する大谷選手の映像が映された。

 大谷氏は身長193cm。パートナーの田中真美子さんは180cm。ともにスポーツマンであり大柄同士で,相性も良さそうで結構なことである。

 筆者の友人には,大柄の男性が多い。小学校時代の健康優良児だったり,高校時代のバスケット部のエースだったり,とにかくチビだった筆者にとっては何となく頼りがいのある大柄の友人と一緒にいるのが心地よかった。同学年ということもあり,気兼ねもなかったのかもしれない。

 同学年でも,自分と同じぐらいの身長だったりすると,何となくライバル意識があったのか,あまり付き合いがなかった。自分もそう見られているのかもしれないが,輝きがなかったからである。逆に,ちょっと悪いことをするのも,こういう小柄なヤツが多かったように思う。大柄の友人の中に悪人はいなかった。

 しかしこれが社会人になると一変した。新入社員にとって,先輩方ははるかに雲の上の存在だった。いくら努力しても自分がほとんど無知で無力であることを思い知らされた。その中で1人,大柄の先輩がいて,何かにつけても声をかけてくれた。当初はこちらも必死なので,ありがたく受け止めていたのだが,だんだんその関係が鬱陶しくなってきた。向こうは善意のつもりであることに間違いはないのだが,こちらにとっては干渉や圧力に思えてきたのである。いまでいう,マウントを取られる状況である。

 首都圏の通勤は混雑する。お互い,少しずつでも譲り合って不快感を少しでも減らそうという気遣いがほしい。その中で,デイパックの前背負い,髪いじり,スマホ視聴などについてこれまでも指摘してきたが,最近は特に身体の大きいDD(デブ,デカ)な人がまったく譲ろうとしないことに腹が立っている。ただでさえ場所を取り,他人を上から見下ろすような位置にいながら,相手の顔にモノが近づこうが,自分が押された方向にさらに単純に奥に押し込んだりと,まったく配慮がないのである。

 女性に対しても配慮がない。デイパックの前背負い,スマホ視聴で,まったく周りに気を使う様子が見られない。つり革にもつかまらないから,電車が揺れたときに相手にのしかかる。一般的に小柄な女性や子供はたまったものではないだろう。

 デイパックの角や自分の肘などが人に当たっていないか,一方的に押していないか,少し考えてほんの少し自分の身体の角度を変えるだけで,相手に対する負担がなくなったりするのだが,そういう配慮をする気配がないのである。

 逆に,妙に細身で見栄えのしない男性もいる。何を考えているのか分からず,近づきたくない思いがする。人にはいろいろな悩みがあるが,公共の場では表に出さない方がいいのではないかと思う。背筋を伸ばし,前を向いて,気持ちをシャンとすれば,好感度は上がる。少なくとも不審がられることはないのではないか。馬子にも衣装ではないが,最低限のエチケットを守った外見は,社会生活にとっては重要だと思うのである。

 この時期,マスクにメガネ(特にサングラス),そしてフードを被って,黒っぽい服装をされると,特に夜道ではドキッとする。歩き方もフラフラせずにシャキッとするだけで,印象が良くなると思うのである。

 大谷夫妻には大柄カップルとして,いいお手本を示してもらいたいと思う次第である。なによりも,変にベタベタせず,また爽やかな笑顔で登場されたことが,非常に良かったと思う。爽やかさという点では,かつてのぺ・ヨンジョン氏(ヨン様)の来日シーンに重なるものがあった。

新型コロナ42週は6.53人で横ばい--倉持医師の感染と指摘が気になる

新型コロナウイルス五類移行後42週目の感染確認者数は,全国平均で6.53人。前週の6.99人より減ったものの,横ばいへの移行傾向がある。この1週間の感染確認者数は32,236人だが,医療機関数で再計算すると46642人と,決して少なくない。

 一方,インフルエンザは16.14人で,前週を上回って反転した。

42週。横ばい移行傾向が見える。

 筆者は3/13から少し体調を崩し,喉の痛み,微熱が続いている。熱は37.5℃に上がったきり,36℃台後半と37℃前半を行き来し,3日目には平熱に戻った。いちおういつもの風邪だろうと思って,寝て療養しているのだが,4日経った今日も今一つすっきりと抜けていない。カミさんは微熱が出て医者に行き,風邪と判定されたので,筆者もいつもの風邪だと思うのだが,こんな記事に出会ってしまうと不安になる。 倉持仁・院長、「とうとうコロナに」感染 熱が「39度ぐらいから36度にすぐなった」「咳はひどくなり」(中日スポーツ) - Yahoo!ニュース (2024/3/15)。

 毎日,何人もの患者と接する医療関係者が,最大努力と最大防御をしたとしても,患者からの感染が避けられなかったのが,この新型コロナウイルスで,発生当初は多くの医療関係者も感染し,最前線を外れた。防護服がなく,レインコートで代用したり,マスクを重ねて使用したり,診察後の処理にまできを使っていたのを思い出す。

 五類移行後,発熱しても一般医療機関で診察を受け,コロナとインフルの同時検査も実施されるようになり,解熱剤とタン切り薬が処方されて自宅療養で回復させるという流れになってきているのだが,倉持医師の指摘どおり,結局は国側の都合でサポートを削ったということになる。

 さらに2024年4月からは,治療薬の全額負担が患者側にかかるため,逆に治療を断って重症化するケースも出てくるのかもしれない。

 電車の窓開け運動もなくなった。現在,スギ花粉,ヒノキ花粉が大量に飛散しているので,窓を開けるわけにもいかない。何しろ国民の1/3が花粉症になっているからである。まして,花粉症による咳・くしゃみなのか,新型コロナやインフル,風邪による咳・くしゃみなのかを区別することもできない。いまどき,「私は花粉症です」バッジを付けてくれる人もいないだろう。

 たまたま,期末で消化できる有給休暇があったために2日まとめて休むことができたが,週明けが少し不安な筆者である。

 いまさらだが,早く「新型コロナ特効薬」を開発すべきと再度指摘したい。インフルエンザがタミフルなどの特効薬の開発によってとりあえず最悪の結果から逃れられるようになった。新型コロナ治療薬はあるが,これは入院に伴って使用されるものであり,一般処方されるものではない。飲み薬,注射薬,吸引薬,どれでもいいので,新型コロナ特効薬を早急に開発してもらいたい。

破壊シーンを今なぜ描く必要があるか--「ゴジラ-1.0」の視覚効果賞受賞メッセージが残念

アメリカの映画賞第96回アカデミー賞で視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」。VMX技術を使って本物のシーンにCGの背景を合成し,低予算で効果的な場面を作ったことが評価されたようである。

 筆者は映画そのものを見ていないので,スポット的に流れる映像から判断し,そのメイキングのプロセスを一部紹介した番組から類推しているだけなのだが,テーマがゴジラだけに破壊シーン,戦闘シーンが大量に盛り込まれているようである。

 それは結構だが,それがなぜ今なのか,という点である。ウクライナ紛争が丸3年経っても終息しない。イスラエルによるパレスチナガザ地区への侵攻でも,引き続き毎日のようにミサイルによる建物の破壊シーンや負傷者のシーンが報道される。2023/1/1に起きた能登半島地震から2ヶ月半経つが,建物の撤去も修復もほとんど手つかず状態である。

 受賞に際して,こうした現実の破壊シーンに対する批判をし,エンタテインメントである映画やアトラクションの中だけのシーンにしてほしい,というメッセージを発するべきだったと思うのである。受賞が単なる糠喜びになったのが,なんとも残念である。

 ストーリーそのものが未熟だったために,その他の賞はすべて受けることができず,テクニック賞だけになったという感じで,いかにも中身の薄い受賞に思えた。もっとすばらしいメッセージを発信できたはずではないのだろうか。

 もう1本の受賞作品である「君たちはどう生きるか」の長編アニメーション賞についても,まったく同名の小説が1937年に吉野源三郎氏によって書かれており,2017年にはコミック本として「漫画 君たちはどう生きるか」が発表された。映画とはまったく設定も異なり,ストーリーも異なる。しかしもし,「吾輩は猫である」というアニメ映画を作ったとしたら,原作は夏目漱石だと誰もが思うだろう。なぜ,宮崎駿はわざわざ同じタイトルの別アニメを作ったのだろうか。しかも公開前の予告も出さず,公開後もSNSなどでの情報発信を禁じるという措置を取った。筆者にはこの取り組みはすべて有名になった監督の横暴としか思えないのである。

 いずれの作品も,見るつもりはない。何だか日本人芸術家の懐の狭さを見せつけられたような気分である。

 ついでに言うと,「-1.0」を「マイナスワン」と読ませたところも気に入らない。言葉として非常に不正確であり,英語に対する冒涜に見えるからである。どうも,「進撃の巨人」あたりから,作品タイトルの付け方がおかしくなってきたように思う。海外の人に対して,どう説明すればいいのか,はなはだ困った問題であり,日本人の言語能力の低下をさらけ出しているように思えるのである。

男女をもっとシンプルに「生物」として考えてみる--「仕事」の意義がはっきりするのではという仮定

ヒト(人類)ほどオスとメスの外見の違う生物はいない。ほかの生き物を見ると,年1回の繁殖期以外は,オスもメスも生きるためにエサを求める。子育て中の母親も狩りに出かける。オスが獲物を持って来てくれる,などということは基本的にない。それぞれが自分が生きるため,子供が生きるために,精一杯仕事をしているように見える。

 これに対して,一年中いつでも発情期で,いつでも交尾し子供が産めるのがヒトである。しかも,子離れに20年もかかる。どう考えてもおかしい。ヒト以外の生物と,まったく違うように見える。

 このヒトのオスとメスの外見の大きな違いが,あまりにも役割分担を明確にしている原因と思える。男のパワハラ,セクハラは,ヒト特有の行動である。マウントを取ることも,ヒト特有である。

 交尾の機会を1年の限られた時期に制限すれば,人間の男ももっと謙虚になるのではないか。まあ,性犯罪を激化してしまうかもしれないが。

 子供をたとえば3人産むとして,2年置きに6年,そして保育園や幼稚園に生かせて1日の大半が手があくようになるのに4年とすると,女性の出産から基本的な子育ては10年ということになる。この10年は子育てに集中してもいいように思う。これを過ぎると,家にいる時間ばかりが長くなる。企業は,この10年間を育児期間とし,10年後の復帰を保証する形が1つの理想ではないかと考える。25歳で結婚して10年で35歳。まだまだキャリアアップを目指せる年齢である。

 加えて,10年の育児期間中も,リモートでの就業のチャンスがある。企画部門や共通部門など,外回りのない部署であれば,リモート作業を継続することで,経験を途絶えさせることなく,次のキャリアアップにつなげられると思うのである。

 正直,結婚当時の筆者の収入は,世間の平均よりもかなり高かった。パートナーに育児に専念してもらえるだけの収入があり,専業主婦の道を選んでもらった。当時は,リモート業務の仕組みもなかったし,育児後の復帰のシステムもなかった。

 その後,転職によって収入が激減し,パートナーにも仕事をしてもらうことになったが,前職とはまったく異なる業種での仕事になり,ストレスも高いようである。前職が,女性社員に対して世間一般よりは待遇がいいと聞いていただけに,復職できないことに残念さを覚えていた。

 ただ,20年以上も専業主婦で子供たちの成長をサポートしてくれたお陰で,道から外れずに育ってくれたと思う。子供たちにとって家という安心できる場所を提供できたことが,筆者宅の誇りでもある。ただ,そのために筆者は残業もいとわずに仕事をし,必要な出費には惜しむことなく使った。家屋以外の財産をほとんど残せていないのが,心残りではある。

 時代は変わったと思う。男性の収入が家庭を支えられるほど高い時代は終わり,パートナーとの共働きが基本的なスタイルになる。男性の育児休暇も進められているが,どれほど頑張っても女性による細やかな育児スタイルをマネすることはできないような気がする。しかし,出産からすぐにでも,女性に職場の復帰の場所を提供し,リモート業務を含めて経験を活かして活躍してもらう責任は,企業側にある。ただ,そんな企業がどれほど実際にあるのだろうか,という疑問も残る。

 2024年春の春闘で数年ぶりの満額回答で月1万円以上の賃上げを勝ち取った業種でも,賃上げできた理由はこれまでの利益を内部留保していたからであり,それを少し還元したに過ぎない。一方で下請け企業は内部留保などなく,同じ業種でも賃上げなどまったく話にならず,むしろ倒産の危機にある会社も少なからずあるだろう。

 男性は出産の必要がないので,育児期間の10年は必要ないが,女性はこの10年間をきちんと主張して,会社がその体制を取ることを義務づけるぐらいの法律が必要かもしれない。「男女雇用機会均等法」では,さまざまな業種に対する女性の就業そのものへの壁を崩したが,その後の社内での女性の扱いについては会社任せになっており,育児休暇後の復帰が実施されている企業は極めて少ない。

 「障害者雇用促進法」では,障害者の就業に対する壁を崩した。適材適所で仕事をしてもらっているとは思うが,営利を目的とする一般企業にとっては生産性への影響は気になるところである。それでも企業側は努力している。それならむしろ,経験ある女性社員の職場復帰は,歓迎されることではないかと思うのである。

 35歳で職場復帰しても,あと20年はバリバリ働ける。そういう雇用を保証する促進法があってもいいと思うのである。

 もっとも,現在,1つの企業が30年以上も継続して存在するのは至難な時代になっている。ベンチャーだって腰を据えて企業を大きくしようとする人は少なく,技術を大手企業に身売りして悠々自適を構える人がほとんどである。経営者に将来展望がなくなり,短期利益だけにとどまり,安定雇用も安定業務も提供できないブラック企業が増えている。

 結局は,モノづくり,食料生産,エネルギーづくりといった継続的な企業を国がきちんとサポートし,世界に方向性を示し,その必要な人材を育てる教育環境を提供することが,国の発展にとって望ましい。安定した仕事があれば,安定した家庭を設けられ,安定した子育てができ,少子化問題にも歯止めがかかるのではないかと考える。

 今のままだと日本のロケット産業ではないが,コントロールを失って空中分解するだけの国に終わってしまう。しっかりと足元を見つめた仕事の育成に必要な予算を使うべきだろう。政治家,投資家などが,バーチャルな世界でカネを儲けてのうのうとしているようでは,国という存在は崩壊する。