jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

大御所もタレントも不要論

筆者は,ニュートン物理学で育った旧理系人間である。ニュートン物理学の世界は,答えが1つに決まるという性質がある。複雑な方程式を解いても,答えは1つに確定できる。もちろん,世の中には答えが1つにならないことも常識の範囲で理解している。つまり,出てきた1つの答えを基本的な正解として考え,それに幅を持たせて世渡りをしてきた。

 大学では,偏微分方程式に出くわした。こいつは筆者にとっては難解だった。答えがスパッと出てこない。値を極限まで大きくしたり,0に限りなく近づけたりして,答えを追い込んでいく。コンピュータで仮定を変えながら答えにどんどん近づかせていく。この辺りに答えがありそうだ,というところまでは追い込めても,スパッとした答えが出てこない。今でもおそらく理解できていないだろう。

 卒業後,大学の同じ学科の講義や学会論文の中に「カオス」という概念が出てきた。訳すると「混沌」。もはや筆者には理解できない概念だった。

 アインシュタイン物理学の理論も,筆者にとっては理解不能である。時間の概念,空間の概念など,正しい理論なのだが,宇宙関連以外には実学として役に立たないと判断して,スルーしている。

 近年,「答えが1つ」という考え方はほぼ全面的に否定されている。古い価値観として見られ,ステレオタイプと揶揄される。

 日本語では一般に,いろいろな種類があることを「バリエーション」と呼んでいるが,バリエーションは「変化」「変異」など時間をかけて変わっていったことを示していて,たとえば音楽で言えば編曲や変奏曲,転調などが伴うものをバリエーションと呼ぶことができる。一方,色や形の選択肢が同時に存在することは,「ダイバーシティ」と呼ばれる。日常ではほとんど使われる言葉ではないので,バリエーションで代用していることが多い。

 「みんな違ってみんないい」というのは,ダイバーシティである。それぞれの個性ということができる。形態的な違い,精神的な違い,すべて「みんな違ってみんないい」というわけである。

 経済的な効率化を図ると,答えが少ない方が速い。男社会というのは,こういう単純な構図のもとに何千年も続いてきた。世の中の半分が女性なのに,答えが1つで進んできたのがヒト社会である。

 答えを2つにするのもなかなか難しいのに,性のバリエーション(Aの身体ながらBの心への変化,など)への対応はハードルも高い。人種のダイバーシティへの対応もなかなか難しい。しかし,21世紀に入って急速に世界中の取り組み方が変わってきている。

 SDGsという国連の呼びかけで,まさに目標が定められたことで,人々が発言を始めた。「Black Lives Matter」「#MeToo」などのキーワードの持つ力がSNSを通じて世界中で使われるようになった。膝をついて拳を振り上げる動作,頭の上で手をXに組む動作・・・。勇気ある個人の行動が,世の中を動かしつつある。

 旧理系人間の筆者にとって,個人的にすべてを受け入れられる状態にはなっていないが,基本的にすべて容認はしているつもりである。

 さて,話を最大限に拡大したが,世の中には筆者よりも1つの考えに固執している人が山のようにいる,ということを言いたいと思っているのである。

 1つは「大御所」と呼ばれる年長者である。とにかく,自己中心に世の中を生きて来たので,世界が自分を中心に回っていると思っている。その世界のことを何でも知っているように振る舞う。他人を押しのけて生きてきた人々である。

 たとえばスポーツの世界では,かつては「スポ根」と呼ばれ,精神論で身体を鍛え技を磨く時代があった。現在は理学療法的な理論,栄養学的理論も含めて科学的に身体を鍛え,技を分析する。「それはそれで理解できるが」と口では言っていても,心の中では自分のこれまでのやり方が一番だと思っているので,口をついて出るのは根性論になってしまうのである。元スポーツ選手だけでなく,歌手,俳優なども同じような考えの人が多いように思える。そして,厄介なのが政治家崩れの評論家である。

 もう1つは「タレント」である。自分中心に世の中が動いてきたと思っている点は大御所と同じだが,厄介なのは,他人を押しのけて来たのではなく,「他人に構わず」に生きてきた点である。人のことを思いやる気持ちがない。遠慮もなければ打たれてもまったく反応しない。

 メディアは,より公平な情報のみを責任を持って発信すべきである。ということでまず,広告主の意向に沿っておカネをもらっている民放局は不要である。公共放送としてのNHKからも,大御所やタレントを排除すべきであると考えている。