jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

100円ショップ依存を見直す--モノづくりを取り戻せ

小学生高学年から中学生にかけて,ラジオ作りのために大阪日本橋の電気街によく出かけた。さまざまな部品店を巡る途中にある雑貨店にも立ち寄って,いろいろな変わったモノを見つけるのが好きだった。

 大人になって東京に出てからは,当時はまだ電気街だった秋葉原に頻繁に出かけた。ここでも,お目当ての電気部品以外に,やはり雑貨店に入って物色した。秋葉原以外にも,新橋や蒲田といった辺りには,駅前に雑貨店があった。多くは,倒産した会社の製品を買い叩いて売りさばくいわゆる「バッタ屋」だったと思われる。

 同じように,電化製品を安く売りさばく店がニューヨークにもあった。筆者が1年を過ごしたのはもう40年近く前だが,固定電話機やポットヒーターなど,変な買い物をした。当時,こうした店は中東系の人々が運営していた。

 日本ではその後,もっぱら通ったのが東急ハンズである。ビル全体が宝の山で,2時間でも3時間でも過ごすことができた。特に,文房具売り場と素材売り場で細かいモノを探すのが楽しかった。

 電気モノはそのうち,DIYショップで入手するようになった。工具や素材とともに購入でき,便利だなと感じた。現在でもプロ向けに必要な素材を取り扱ったりしており,クオリティは保証されていると感じる。

 このように雑貨を扱うショップが変遷する中で,100円均一ショップの登場は,価格破壊を持ち込んだという意味で画期的だった。日本での第1号は,1985年3月愛知県春日井市に開いた「100円ショップ」だという。

 今でもたまにあるが,成型に失敗したプラスチック製のボールペンなど低クオリティの製品も売られている。しかし,ほぼ9割以上の製品が,デザイン,機能,クオリティ,そして包装までまったく問題がなくなっている。むしろ,かつての日本の商品群の品ぞろえをはるかに超えた種類の豊富さがあり,選択肢が豊富で,気に入った製品に出会える確率も高く,日常生活で使っても何の問題もない。

 筆者の場合,手帳,財布,キーホルダー,定期券入れ,緊急用老眼鏡,茶碗,スマホの充電・通信ケーブル,スマホ台,鼻毛キリ,不織布マスクなど,衣食住のうち「衣食」以外の全般に100円グッズを利用している。お試しのつもりで買ったものを延々と愛用しているモノもある。

 しかし考えてみると,かつては日本が企画した製品を,中国など人件費の安い国で安く製造するという流れだったが,今、日本ではこういう小物を製造する技術も人材も企業もない。付加価値を付けて高い値付けをしようとしても、ほとんど差を付けられない。

 いったん,安くてもいいものを手にすると,多くの人の需要はそちらに流れる。特に筆者のような一般庶民は,適切なクオリティで満足してしまう。もともと,戦前まではまともなモノがなかった日本で,戦後の復興期に新しいアイディアと必死の努力で続々とモノが作られ,世界に発信されていった。

 最初は安かろう悪かろうだった日本製品は,不良品を極限まで減らす品質管理が行われた。当時の他国では,100個のモノに10個の不良品があったら,110個納品して終わり,という中で,日本は100個とも規格品を納品することから,信頼を得た。

 家電製品が,台湾や中国,東南アジアで生産され始めたころ,日本人は「どうせ安かろう悪かろうだ」と高をくくっていた。しかし,日本の戦後復興をお手本にした各国は,安くて品質が良く,性能も高い製品を次々と作って輸出し始めた。その頃,日本はバブルに浮かれ,マネーゲームに走り,モノづくりの心を失ってしまった。

 いつの間にか,Made in China製品が,世界の標準品になってしまっている。白物家電を中心に,パソコン,ディスプレイ,そしてスマホやドローン,EV車まで,あっという間に世界一のモノづくり国,モノ輸出国になってしまった。

 しかも,デザインも野暮ったくなく,洗練されている。いつのまにこんな実力を付けてしまったのだろうと,驚くほどである。一般製品だけでなく,高級品,高額品もきちんと作る。中国国内には以前から,半端ではない富裕層が存在した。共産党の上層部が国民から搾取し,財産を築いてきたからである。この辺りが,本当の金持ちのいない日本との決定的な市場の違いではないかと思うのである。

 さて,庶民が中心の日本は,100円ショップで事足りる生活にどっぷり浸かってしまった。一方で,1台10万円もするスマホが必須となり,このスマホを通じてメタバースにつながることで,ゲームや音楽,エンタメを通じて沼にはまった状態になっている。日本の金融資産が,メタバースという裏世界に流れていってしまっている。GDPが世界4位になったと言っても世界トップの生活をしていていいはずなのに,日本国民の生活は青息吐息である。最もおかしいのは7人に1人の子供が,1日1食しか食べられないような貧困状態にあるという実態である。こども食堂が当たり前のように開かれている状況も,矛盾している。

 日本は,もう一度,経済成長を遂げなければならないと思う。生活の基本である衣食住を,少なくとも自国で完結する体制に戻さなければ,いつ世界情勢が変わってモノの流通が止まった時に,まったく対応ができなくなる。食糧(植物工場と陸上養殖),エネルギー(水素),そして生活必需品をもう一度ていねいに作り,大事に使うという文化を取り戻さなければならないと思う。

 便利な100円ショップで満足せず,より付加価値のある創造的なモノづくりと復活させなければならない。

 今や日本は,メタバースに飲み込まれようとしている。沼に足を取られて引きずり込まれようとしている。しかしそれに気づかない。仮想空間の中で,日本人が生き残れる可能性は限りなくゼロに近い。単にカモにされているだけのように思える。

 小学生がスマホプログラミングでいろいろなアプリを作ることが推奨されるような時代だが,デジタルは所詮(しょせん)は「虚(きょ)」である。その仕組みをリアルな人間がどう活用するかまで考えなければ,単なるお遊びに終わってしまう。手を動かして,感触を感じながら,モノを作っていくという作業を忘れてしまっては,文化すら生まれない。

 さらに言えば,食材で遊んでしまっている現在の日本の食文化は,世界の1/8の8億人が飢餓で苦しんでいる事実に対する冒涜である。大食い然り,1個2000円のハンバーガー然り。正直,これほどメタボ日本人が増えた時代があったろうか。テレビなどのメディア人の感性の破綻と,無制限なSNSメディアの爆発で,もはや日本人の暴走を止められなくなっているように感じる。