jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

1:1写真(正方形)に興味を覚える--スマホの構え直しや周りの余計な写り込みを気にしなくて済む

ケータイからスマホまで,現在の携帯写真は縦長である。スマホのモニターが縦長なので,そこに映る画像は縦長で問題はないのだが,ここのところ,ちょっとした違和感を持つことがあった。

 筆者が最初に持ったカメラは,オリンパスペンというフィルムカメラである。このカメラは不思議なことに「ハーフサイズ」という寸法だった。通常のフィルムが横位置で4:3サイズなのだが,この幅を半分にして縦位置に撮影するというものである。

 蒸気機関車の撮影から,小学校の修学旅行の写真まで,このオリンパスペンを使った。列車を横位置で撮ったり,風景を横位置で撮ったりする場合は,カメラを縦に構わえる必要があり,変なカメラだと思っていたが,人物を撮影したり,機関車を近くで撮影したり,手元から遠くまでの風景を撮影したりする場合は,不思議と縦位置がピッタリだった。4:3よりも少し細長いサイズだったように思った。

 その後,フルサイズの35mmフィルムでの撮影が長く続いたので,横位置が普通だと思い込むようになった。テレビも横長画面だし,その後のパソコンも横長だった。

 一方,書籍はすべてが縦長である。ノートも縦長である。これも何の不思議に思うことなく過ごしてきた。

 ところが,雑誌の編集の仕事をするようになって,「横長のディスプレイに縦長のページを表示する」ことに非常に不便を覚えるようになった。表計算やプレゼンソフトは横長の表示に適しているが,ワープロソフトやページレイアウトソフトでは縦長ディスプレイの方が適していると感じた。

 現在のPC用の液晶モニターは,簡単に縦位置(バーチカル)に90度回転できる機種が複数ある。それ以前のブラウン管の時代は,ごく限られた機種しかなかった。ほとんど1機種しかなかったのではないだろうか。会社ではそのピボットディスプレイを使っていたが,非常に高額な製品であり,家で使うことはあり得なかった。

 その後,液晶モニターは4:3のスクエアサイズから16:9のさらに横長サイズに変わっていった。テレビのハイビジョンも16:9であり,これに対応してビデオカメラもさらに横長の画角になった。デジタルカメラも同様である。

 横長のモニターは,サイズが大きくなり,また画素数が増えたことにより,書籍や雑誌の2ページを広げた形で表示できるようになった。仕事で校正をする場合も,校正前と校正後の画像を横に並べて置くことができる。しかし,ページ全体を表示させると文字は小さくなるため,横に並べて使うことはほとんどないのが現状である。

 さて,現在のスマホで撮影される写真は,ほぼ9割以上が縦位置だと思われる。自撮り棒に横位置にスマホを取り付けて記念撮影を撮ったりすることはあるが,ほとんどは縦位置である。その方が,あとでほかの人に送った場合でも,相手が画面いっぱいに表示できるからである。横位置の写真を送った場合は,相手は画面内で小さな写真を見るか,わざわざ表示を回転させて横位置に表示できるようにするしかない。

 そこで,スマホで1:1の正方形の写真を撮ることを標準にした方がいいかも,と考えた。

 正方形写真と言えば,Instagramが登場したとき,「なぜ正方形なの?」と疑問を持ったものである。筆者としては,写真を投稿するという文化がまったくないので,Instagramはまったく使っていない。いまだに意味不明の世界なのだが,意外に「真四角に世界を切り取る」ことは「情報量は最大」といえるのかもしれないと思い始めている。

 考えてみると,フィルムカメラでも正方形のサイズはあった。ブローニー版と呼ばれるサイズで,フィルムサイズは6cm✕6cmである。35mmフィルムを使うカメラが出る以前にあった二眼レフカメラハッセルブラッドなどの大判カメラで使われていた。これらのカメラは横位置で撮影することができないので,カメラを固定した状態で最大限の範囲を撮影するために1:1のフィルムサイズになっていた。考えてみれば,カメラのレンズは上下左右対称なのだから,正方形に撮影することは当たり前とも言える。

 スマホ・カメラではAndroidiPhoneにはかなわないと思っている。だれが撮っても失敗なくバシャバシャ撮れるからである。AndroidでもXperiaを筆頭にgoogle PixelがiPhoneに追いついたと思うが,他社のAndroidスマホは今ひとつオモチャ感が残り,不満を覚えることが多い。筆者が現在使っているスマホはシャープ製で,宣伝文句は悪くないのだが,使い勝手(ピント合焦の速さ)から画質(コントラスト,色味など)いずれもiPhoneに遠く及ばない。スマホだけで何かの行事を撮影するなど,冒険である。

 また,標準カメラで1:1モードがなかったので,アプリを探しまくった。いずれも今ひとつで,現在も試し続けているところである。

 1:1写真のいいところとして,被写体の周りをあまり気にしなくて済むことが挙げられる。縦長,特に標準の16:9だと,手前に自分の膝が写ったり,奥に家具が写り込んだりする。室内で撮影するときには,自分の手の影が手前に入ったりして気になっていた。1:1にすると,被写体中心に集中すればよく,ピントを合わせれば撮影OKとなる。ペットの撮影もうまくできた。

 LINEなどで写真を送っても,相手がいちいち横位置にする必要もなく,被写体をきちんと見てくれるように思える。Instagramが始まったのが,何と2010年で12年も前になる。その間,写真は気にせずに横位置にこだわってきた。ちょっとこれから「正方形」にこだわってみようかと考えている。

阪神淡路大震災から28年--記憶は風化するが,より効率的な土地利用への発想転換を提案

1995/1/17 5:46に阪神を襲った震災から28年が過ぎた。筆者は川崎市のマンションに住んでいて,朝7時のニュースで阪神高速道路が横倒しになっている映像を見て慌てた。実家のエリアだったからである。電話をしてみたが,実家とも兄夫婦の家ともつながらなかった。9時に近くのレンタカー店で1台のクルマを借り,家にあった最低限のものを載せて東名高速を走らせた。途中のサービスエリアで停まりながら公衆電話で連絡を取ったがつながらなかった。富士川サービスエリアに来たとき,ようやく兄夫婦の家につながった。「今来てもクルマは入れないから来るな」と言われた。両親も兄夫婦も無事だった。

 現地入りしたのは10日後。実家の最寄り駅から2つ手前の駅までは電車が動いた。そこから徒歩で1時間かけて実家にたどり着いた。途中,自衛隊からブルーシートを分けてもらったが,リュックサックとカートがすでに重く,おまけに雨も降ってきていた。国道沿いに歩いたが,歩道は亀裂が入り,盛り上がっていて,カートを引っ張りにくかった。陸橋の柱の鉄筋コンクリートが見事につぶれていた。

 実家は倒壊は免れたが,中は想像以上にモノが飛散していた。冷蔵庫が倒れたりしていたという。眼の前にあった2階建てのアパートは1階が潰れていた。父はそこから数人を助け出したという。いち早く,石油ストーブをつけてお湯を沸かし,近隣の方に振る舞ったとも聞いた。隣のブロックにあった15階建てのマンションも傾いていた。後日,崩れたという。

 筆者自身は被害を受けたわけではないが,記憶はそれなりに鮮明に残っている。その後,2011/3/11の東日本大震災は埼玉県内の自宅で経験した。たまたま揺れの小さい地域だったことが幸いしている。

 阪神地区はすっかり復興した。福島地域と違って原発事故がなかった分,リセットが容易だったと思われる。打撃を受けたのが住宅地と商業地であり,地元の産業の被害は一部の酒造会社程度だった。一方福島地域は,原発放射線と,津波による塩害によって,リセットが進みにくい状況にあり,しかも農業,水産業,観光業という地場産業が大打撃を受けたことが,問題点として残っているといえよう。

 阪神淡路大震災の教訓は,普段からの非常用常備品の準備が欠かせないことである。家の耐震設計基準も見直されたが,津波や山崩れには歯が立たない。倒壊を免れることで「命を守る」ことはできても,中途半端に被害を受けることで地震保険や被災保証の対象から外されてしまう不具合も生じている。被災しているのに,保証が受けられない可能性も出ているのである。

 まして,ウクライナ戦争で明らかになってきた現代の兵器の破壊力の凄まじさは,極東地域にある日本にとっていつ打ち込まれてもおかしくない世界情勢にある。どこまで頑丈に家を作っても,最大級の台風や竜巻,最大級の地震や山火事,最大級の津波や火山爆発など,かつて100年に1回と言われていた大災害が数十年に1回という高頻度で起きている現実や,1発で広島原爆の4000倍もの威力を持つICBMが飛んでこない保証がない現実においては,まったくと言っていいほど無力な状況にある。

 たまたま今朝,長年使っていたフォトフレームが突然映らなくなった。モノの劣化は確実に進み,あるとき突然,機能しなくなる。前兆をつかめる可能性はあったとしても,そのときが来ればほぼ何の対応もできない。修理できる可能性はあるものの,すでに部品の保管期限が過ぎていたり,また設計者・修理者などの技術継承もされていない可能性も大きい。結局はただゴミになるだけである。

 家を含むインフラも,50年経てば劣化し,当初の性能を維持することはほぼ困難である。いくらお金をかけて作っても,結局は壊れて価値がゼロになる。公共インフラは,メンテナンスも含めた設計と運用が必要であり,ただ単純に平原に舗装した道路を敷いたアメリカと違って,基礎から立体構造まで作った日本の高速道路が,結局は無料になることは永遠にないことも明らかだろう。

 本ブログを書きながら,阪神淡路大震災の教訓は何だろうかと考えているのだが,高齢化,少子化が進む中で,土地の有効利用を再検討することが,現実的なように思えている。

 まず,食料の自給態勢を進めるために,農業・水産養殖生産工場を作ることである。弱いビニールハウスではなく,自然環境に影響を受けずに食料を作れる施設を,公共インフラとして整備すべきだろう。これは農林水産省が進めるべき事業である。国土交通省が高速道路を建設するのと同様,農水省が国の予算で進める必要がある。

 次に,エネルギーの自給態勢を進めるために,水素発電のインフラ整備が必要である。これは経産省エネルギー庁の公共事業である。

 いずれも,両省庁が音頭を取り,かつての建設省である国土交通省を引き連れて,インフラ建設とその維持のためのメンテナンスを進める必要があると考える。

 今や,超高層マンションは無用の長物である。何がうれしくて今,集合住宅を作る必要があるのだろうか。50年後には老朽化し,解体するしか方法がない。高度成長期のように人口が増え続けて都心に集中するときには必要だったが,今,そのニーズは中国の投資(いや投機)のためでしかない。また,建設業界が一時的に潤う構図を作っているだけである。おそらく,一度も住まわれないままで数十年経過して解体ということになるのではないか。地震や洪水で電力がなくなれば,上層階への移動手段も,水の供給手段もなくなることは明白である。

 それよりも,現在各地で放置されている空き家・空き地を計画的に接収し,個人に低価格で供与し,低コストの低床の家を提供する政策を進めてはどうだろうか。

 日本が,モノづくり産業を放棄した場合,外貨獲得の道はない。諸外国のように,軍事産業を放棄しているのなら,海外との交流を断って自給自足を目指すしかない。行動成長期における家電製品と自動車という2大産業に代わって輸出できる産業は,環境に影響されずに効率よく生産する農業工場や陸上養殖工場,そして日本が自前で調達できる水素エネルギーしかない。この新しい産業を10年で立ち上げる必要があると筆者は考えているが,おそらくそれもできないとすれば,国民の労働意欲は高まらず,収入が低いことによって結婚して家庭を持つという夢も持てず,少子化はさらに進む。ならば,国民の最大の負担になっている住宅環境を低価格で提供することが望まれる。ただ,狭い土地を提供すれば,2階建て以上の家を作らなければならず,おのずと非効率的で高コストな家しか作れず,単に建築業界を潤すだけに終わってしまう。

 まずすべての家庭に,現在の公庫融資の対象となっている100㎡(33坪)の2.5倍の250㎡(75坪)の土地を無償で供与する。無償供与の条件として,建屋は平屋建てとし,延床面積は100㎡とする。20畳のリビングに6畳間が5個できる計算になる。子供3人を育てるのに十分な広さがある。

 平屋のメリットとして,建設コストがかからないことと,地震に強くなることである。また屋根面積が広い分,軽量で大面積の素材を使用でき,メンテナンスが容易となる。広い面積を使って,希望者は太陽電池パネルを多く設置でき,エネルギーの自給も促進できる。2022年に東京都が義務化した新築住宅への太陽電池パネル設置は,効率も悪く,業者および中国企業を潤すだけのまったくナンセンスな政策である。

 さらに,部屋を規格ボックスとして量産することで,低コスト化も図れる。必要な強度を持たせることで,安全にもつながる。海外材料を購入し,国民に高く売りつけて暴利を貪ってきた建設・建築業界にメスを入れることもできる。

 日本は狭い,と思われているが,土地の使い方が下手なのではないか。人口増加が停まり,一方で超高層タワーマンションの建設,一方で空き家の増加。天候に左右され,収穫物を害獣や害人に盗まれる農業。領海にまで侵入を許して違法操業される水産業。3K(汚い,臭い,危険)で労働者が集まらず生産性も上げられない製造業。これらすべてのチグハグをなくす政策を提案できないものだろうか。

 結局,被害者,当事者だけはいつまでも心に傷を負ったままとなり,せめてもの補償を求めて裁判に訴えるが,社会性のない裁判所と当事者ではない裁判官・陪審員による無味乾燥な議論と判決が繰り返されるだけとなっている。せめて,少しでも広い家で心にゆとりを持てるような環境を提供してもらいたい。いつまでも「ウサギ小屋」では,発想が拡大しない。

初の「学習リモコン」--何でもありで驚き【追記あり】

筆者宅の家電製品にも中国の波が押し寄せている。最たるものはテレビ。かつてはソニーのブラウン管テレビがリビングにデンと場所を取っており,これを載せるためにわざわざコーナー型のテレビ台家具を購入したほどだった。

 このテレビ台の空間いっぱいの薄型テレビとして,42型のプラズマディスプレイを購入。パナソニックプラズマディスプレイ生産の末期の頃で,手頃な価格まで暴落したところで導入した。画質は最高に良く,今でも見やすさではプラズマディスプレイがいいと思っている。国産の薄型パネルとしても末期である。

 しかし,プラズマディスプレイではハイビジョンまでが最大の対応で,4K8Kに対応できる同サイズのパネルはとうとう登場しないまま,プラズマディスプレイは消えてしまった。その後を引き継いだ大型有機ELパネルは,韓国のLG電子の独壇場である。

 有機ELパネルの選択肢が少ない中,4K8K放送が本格的になり,筆者としても画質に関心があったことから,液晶テレビの4K対応モデルを導入することになった。プラズマテレビが一気に調子が悪くなっての購入のため,ここでもAmazonの出番となった。検索によって絞り込んだのが,中国Hisenseの43型4K液晶テレビである。

 そもそも,液晶テレビは嫌いである。見る方向によって明るさや色が変わりやすく,また画面の動きに対する応答も基本的には遅い。カラーフィルターを通して発色さる方式のため,バックライトの光の1/3しか利用していない。これを克服するために,バックライトをLEDにして画面を分割して制御したり,液晶の切り替えに合わせてLEDのオンオフをして応答速度を上げるなど,涙ぐましい技術開発が行われて現在に至っている。これらの技術のほとんどが日本人技術者の設計によるものだが,パネル製造がすべて海外メーカーに取られてしまったのは情けない。

 さてこのHisenseの4K液晶テレビだが,最低路線を狙っただけに正直言って選択ミスだった。プラズマテレビと比べて圧倒的に軽量で圧倒的に消費電力が少ないのだが,画質は映像がとりあえず問題なく映る程度。バックライトはLEDだがおそらくエッジ型のため,配光ムラがある。そして何よりも,音がショボかった。

 すぐにまた,低価格にサウンドバーを購入して接続していたのだが,ほぼPC用のサウンドバーで,音が普通に出る程度だった。ステレオのはずなのだが,なぜかモノラルになってしまうこともあった。

 息子が,テレビにChrome Castをつないで1年が経過する。2022年末は家族が家にいることも多そうだということで,ゲームをしたり,映画を観たりするだろうと思って,新たにサウンドバーを購入することにした。そこで選択したのが,中国のTCLのサウンドバーである。ネットでの評判は悪くなく,コストパフォーマンス抜群という触れ込みだったのだが,まあ音質的にはほどほどという感じだった。

   問題は、このサウンドバーによってリモコンが追加されたことである。HDMI接続すれば、テレビと同期して音量調整できることは確認したのだが、何しろChrome Castやケーブルテレビのセットトップボックス、Blue-rayなどがすでにHDMIポートを占領しているため、光ケーブルでテレビと接続している。この場合は、サウンドバーの音量調整をサウンドバーのリモコンで行う必要があった。

   マルチリモコンは以前から知っていたが、「結構高い」という印象があった。実際、検索してみると、数万円というモデルはザラだった。しかも対応機種が国内メーカー品が多く、中国ブランドに対応したモデルはなかなか見つからなかった。そういえば、セットトップボックスを設置した際も、テレビとリモコンを共用できないと言われていた。

   そこで見つけたのが「学習リモコン」という製品である。そこには信じられないような価格が表示されていた。1000円以下である。まあ、この価格なら騙されてもいいか、というぐらいの気持ちで注文した。もちろん中国製品なのだが、翌日発送、つまり国内の倉庫にすでにあるということを確信して注文した。夜遅くだったので、届いたのは翌々日だった。

   説明書は小さく、英語とスペイン語であった。しかも説明書とボタンの配列が異なる。マズイと思ってインターネットを検索したら、設定を解説したサイトがあった。

   翌日、早速設定してみた。学習リモコンとテレビリモコンなどを向かい合わせに置き、該当するボタンを押しながら学習させるという。まず電源のオンオフが動作することを確認した。次にボリューム操作やチャンネル切り替え、入力切り替えなどを順番にセットしていった。

   結果は上々だった。ボタン類が柔らかくて頼りないことを除けば、問題なく動作した。

   インターネットサイトではAmazon Alexa との連携についても紹介されていた。これはまた実験してみたい。

【追記】今回,テレビとサウンドバーの2つの機器のリモコンを設定した。テレビは電源ON/OFFからチャンネル切り替え,入力切り替えなどかなりのボタンを登録したが,ボリュームは不要で設定しなかった。もしやと思い,このボリュームにサウンドバーのリモコンのボリュームボタンを登録してみた。

 すると,2つの機器を切り替えなくても,テレビ側だけでチャンネル切り替えからボリューム調整まですべてできるようになった。

 もちろん,サウンドバーの電源のON/OFFは,サウンドバー側への切り替えは必要なのだが,いったん電源が入ってからは,テレビ側だけの操作でまさに1つのリモコンで操作できるようになった。

 うまくすれば,たとえばBlu-rayの再生/停止など,テレビ側で使われていないボタンに他の機器の動作を記憶させることもできるようだ。ただ,あまり盛り込み過ぎても失敗の素なので,とりあえずボリューム機能の追加だけにしておくことにした。

 しかし,これもびっくりである。

「当事者」以外は分からない--戦争,災害,事故,障害など

筆者は現在,高校生を含む若い理工学系の読者に向けたメディアに関わっている。最先端におられる専門家にも読め,しかも高校生や大学生が理工学系の将来に夢を持ってもらえるように分かりやすく書き下ろしてもらうことにも配慮した編集を心がけている。 

 高校生向けのコラムも企画する中で,こうした理工学系のキャリアに夢を持って選んでほしいと思う一方,現在の理工学系の進路の停滞感をどう打ち破っていくか,またその道を進むための第一関門にある大学受験,そしてその受験教育についても思いを馳せるのだが,理想論と現実とのあまりの乖離の大きさに愕然とすることが多い。

 大学が専門学校化していることは何度も指摘した。教養課程がほぼなくなり,受験時点で自分のキャリアパスを決める必要がある。その際,受験科目が多い理工学系が積極的に選ばれる理由が見つからない。卒業後のキャリアパスも,かつての工業立国,科学立国ではなくなった今の日本に,夢を見いだせない状況である。

   高校生活は、若者として思いっきり楽しんでほしいし、進路の選択肢をせばめてほしくない。大学で自分に合いそうないろいろな分野を知り、専門コースを選んで進んで行ってほしい---と書いたが、現実的ではないのかもしれない。

   高校生は、大学入試の当事者である。筆者のような外部の人間がいくら理想論を掲げても、当事者はとにかく目の前の入試を突破しなければならない。入試制度の変更に毎年のように翻弄されようが、それに対応しなければならない。

   同じように「当事者」でなければ分からないことばかりである。戦争,災害,事故,障害など、支援はできても当事者にはなれない。逆に「偽善者」と言われかねない。残念ながら筆者は,第3者としてのメディア人であることを言い訳にして,基本的な支援行為はしていない。

 実際,日本はウクライナ紛争にまだ巻き込まれていないが,北朝鮮あるいはロシアのミサイルがいつ日本に落ちて来ないとも限らない。そうなれば日本人は即座に当事者になるのだが,抗議をするだけで当事者意識がほとんどない。

 2023/1/14,15は大学入試のセンター試験である。当事者である受験生は必死である。理屈や文句を言っていられない。とにかく越えるしかない。筆者は,もう二度と大学には行かないと決めているので,受験については第三者である。第三者として客観的に見ると,おかしなことが多すぎると思う。自分のときの受験は40年も前になるが,それと比較してもどんどんおかしくなっているように見える。

 結局,40年前に比べると,知識量は圧倒的に増えている。したがって,「高校ぐらいまでに何を学校で身につけるべきか」をきちんと整理し,単に「教育の平等」ではなく「教育の機会均等」に基づいて教育の機会を与える体制をつくるべきではないか。何でもかんでも指導要領や教科書に従って授業を進めるだけでは,詰め込み,暗記,受験テクニックだけになってしまう。

 小学校の授業として増えた英語,情報,プログラムなど,本当に必要なのだろうか。 バイオテクノロジーの進展によって日々新しい知見が増えている生物の教科書がどんどん分厚くなっていることをすべて教える必要があるのか。 さらに,自然と向き合う最も身近な生物の実験・観察の機会をほとんど奪っていながら,地球環境や生命の大切さなどを実感しないまま,ただ雑学をいっぱい知っていて点数が取れるだけで医療分野に進む人材を育てることが,日本のためになるのだろうか。

 社会が多様な価値観を受け入れる方向に進んでいる中で,日本の教育が画一的にまた詰め込みに向かっているように思える。 本当に大事なことを教えていないのではないか。 また,本当に大事なことを教えることができる先生が育っていないのではないか。 多様な学びの機会,そしてその才能を受け入れられる社会の多様性も作る必要がある。 しかし,すべての多様性を認めてしまうと,正直言ってそれはSDGsであり,あまりにも合理性のない社会になってしまう。 たとえば,すべての障害者にとって快適な環境を作ることは事実上はできないし,当事者の権利ばかり尊重していては,法律もできなければ予算も無限に拡大してしまう。

 子供から若者に至るまでの教育は,その後の人格形成に重大な影響を与える。 思想教育も結局は,その後の人格形成に影響を与え,それが国家の進む方向を変えてしまうことは,日本でもわずか80年前に行われてきたことである。 一種の宗教思想でもあった。 それを利用して戦争へと突き進んでしまった。 現在の戦争も,宗教思想が関係しているとも言われている。 ただ,技術の急進によって,一瞬の判断を誤ると世界の終わりにつながってしまうという危険をはらんでいる点が問題である。

 当事者は,人格として権利を主張することは勝手だが,自分の存在が社会にとってどの程度負担になるかについても思考すべきだと思うのである。その上で,どこまで妥協できるのかも考えるべきではないか。

 効率が最も高いのは,画一の状態である。高度成長期における日本の生産の自動化と同様,一定時間に同じモノを大量に作ることでコストダウンが図れる。しかし,ニーズの多様化に伴って種類を増やせば増やすほど,効率は下がる。その分,個々に付加価値を高めなければならなくなる。多様化に合わせて付加価値の向上をしていないことが,生産性を下げ,負のスパイラルに巻き込まれていることになる。多様性を認める代わりに,どれだけ社会貢献できるのかを,きちんと義務として責任を果たすことを宣言してもらいたい。

 筆者は,東京大学の入試選考をやめて誰でも入学できる大学とし,その代わりきちんと勉強・研究をした者しか卒業させない,という形にすべきだと主張してきた。東大に入れることより東大を卒業できることに価値を持たせるべきだと主張したかったのである。しかし,どうもそれだけでは足りないようで,東大を国立大学から私立大学に変えるべきではないかと考えている。東大が自動的に大学の予算の半分を獲得できるから,その既得権益のもとにあぐらをかいているように思える。その権益を守っている政府・官僚も,同様に変化すべきだろう。

 この変化を暴力的に行うことは許されないし,変化を抑えることを暴力的に行うことも許されない。物理的な暴力とともに,言葉による暴力も許されない。筆者も,相手を中傷しないように気をつけながら言葉で主張をしているつもりだが,結局「当事者」にとってはハラスメントに聞こえることも多々あるようである。

 世の中,結局バラバラな方向に進んでしまっている。相手を倒し,飲み込んで,自分を大きくしようとしているように思える。それぞれが相手の存在を認めた上で,自分を最大化する努力をすることが必要なのではないだろうか。日本は今,何をすべきか,そして1人1人は今,何をすべきか,考えた方が良さそうである。権利を主張して利益ばかり求めると,補助金頼みになってしまい,結局は数年後には破綻するという構図に見えてしまう。

ダウンコートはオフィシャルにはオシャレではない--個人的な感想です

2022年末から2023年初にかけての冬は、寒いのか暖かいのか、よく分からない。年末は、新潟県を中心に大雪になった。線状降雪という言葉も初めて聞いた。日本海側の人にとっても、かなりの大雪だった。

   そのころ、関東は晴天だった。寒気は山に遮られてそれほど寒くはなかった。

   年末年始もそれほど厳しい冷え込みは感じなかったが、仕事始めの辺りから急に寒気が入り込み、北風も強くなって寒かった。ところが、北海道は例年になく暖かいという。

   5年ほど前に、ユニクロが薄手のダウンジャケットやダウンベストを発売した。小さく丸られて持ち運びしやすく、スーツの下に着てもそれほど厚みを感じず、しかし結構暖かいという理由だろうか、瞬く間に流行が広がった。

 今,街中を歩くと,カジュアルだけでなく,オフィシャルな恰好をしている人も,感覚的には半分ぐらいはダウンのコートを着ているように見える。

 ダウンウエアの特徴として,キルティング加工がある。ダウンの位置を固定するために,仕切りを作るように縫い目を入れる。ユニクロのダウンジャケットは,これまでのダウンウエアの中でも最も細かく縫い目が入っていたように思う。これも流行った1つの理由のようだ。

 筆者もダウンジャケットを1着持っているが,こちらにはキルティング加工がまったくない。おそらく中の羽毛は仕切りが入っており,羽根が移動することはない。ユニクロの薄型とは真逆にかなりボリュームがある。ユニクロミシュランマン(正式にはビバンダム(Bibendum)というそうな)だとすると,筆者のジャケットはベイマックスかなと思う。

 確かに,ダウンウエアは軽くて暖かいのだが,オフィシャルウエアとしてはどうだろうか。スーツに合わせるのは普通のビジネスコートの方がオフィシャルだと思われる。寒い中をわざわざ訪れたのだと相手にプレッシャーをかけるのは良くないと思うからである。訪問時に,コートは脱いで腕に掛けるのが礼儀なので,その際にあまりボリューミーだとおかしく見えるように思う。通勤やちょっとした移動の際に使うのはありだと思うので,街中で目立つのはオフィシャルではないと思いたい。

 2022年末から,鳥インフルエンザの感染拡大が続いており,1000万羽ものニワトリがすでに殺処分されている。肉は食べられないまでも,せめて羽毛を低価格の「鶏毛ふとん」に利用できないものか,と思ったりする。感染による殺処分だけでなく,通常の処理でも,羽根は廃棄されているのではないだろうか。水鳥の羽毛に比べると保温力は劣るだろうが,何か利用方法があるのではないかと思う。

コンデジ+自撮り棒(with アクションカメラアクセサリー)でいろいろな撮影を楽しむ--縦位置もOK

小さいモノを撮影すると、ピントが1ヵ所にしか合わないので、後ろがボケる。これを解決するのに、複数の断面で撮影した画像データを合成して、どこでもピントが合う深度合成という手法が知られている。手動で撮影して、画像処理ソフトで合成する方法と、撮影から合成までカメラ側で自動的に処理する方法がある。スマホカメラのアプリにもある。筆者は、5万円台と手頃でしかも耐久性にも優れたコンパクトデジカメを購入した。残念ながら、深度合成の需要はそれほどなく、基本的なデジカメとして利用している。筆者にとってはスマホカメラよりもはるかに使いやすいのである。

   一方、アクションカメラも体験したくて、安い製品を購入した。通勤途中の移動時に動画やタイムラプス撮影も試したが、数回動かしたところで被写体がなくなった。やはり、スポーツをする人向けかなと思った。

   アクションカメラを購入したもう1つの理由は、付属のアダプター類をいじってみたかったからである。 水中ハウジングや三脚取り付けアダプター、そして自転車やヘルメットに取り付けるアダプタ ーがいろいろ付属していた。 そのほとんどは使えそうになく、基本的にはミニ三脚に取り付けて小型カメラやドライブレコーダーとして使うか、首から掛けたりカバンにクリップ留めして手ぶら撮影するためにしか使わないように思えた。 

   スマホを初めて購入したときは、スマホのカメラ機能をどう使うかに悩んだ。普通に手で支えて撮影するのはいいが、記念撮影しようにも三脚に取り付ける方法がない。そこで、スマホを挟むアダプターを買って、三脚に取り付けてみた。しかし、スマホを挟むバネの力がかなり大きく、スマホを挟むにはスマホケースを外す必要があった。さらに、スマホを直接挟んでも、何となく不安定な気がする。

   世の中では、自撮り棒という伸縮する棒の先にスマホを挟んで、記念撮影する方法が世界中で広がった。しかし、美術館で作品を傷つけたり、ジェットコースターで落としたり、人に当たったりといった事故が多発し、多くの公共の場所で使えなくなった。筆者も1個入手したが、出番はまったくなかった。

   今回の話題は、これらの3つの商品を組み合わせて、1つの新しい使い方を提案するものである。

   まず、自撮り棒の先にアクションカメラ用の三脚取り付けアダプターを取り付ける。ここに、三脚孔の付いたアダプターをアクションカメラに取り付けて自撮り棒に接続すれば、ローアングルやハイアングルでアクション撮影ができる。ズームなどの工夫をしない撮りっぱなしの用途には使える。 筆者は、ペットの小型イヌの散歩のときに、その表情を撮影するためにローアングル撮影をしてみた。イヌ視点の画像も得られ、面白かった。スマホだと歩きながらローアングルで撮影はしにくいので、いい記録になった。

   このアクションカメラの代わりに、コンパクトデジカメを自撮り棒に取り付けてみた。

コンデジ+アクションカメラアクセサリー+自撮り棒

 

   最初は、みんなで記念撮影するためにセットし、実際に記念撮影もうまくできた。そのまま自撮り棒にコンデジを取り付けたまま、歩いていた。そのとき、自撮り棒を左手に握ったまま、液晶モニターで被写体を見ながら、右手でシャッターを切るという動作が、実に安定していた。もともと、モニターを見ながらの撮影のために、通常の構え方では左手でカメラをしっかり握ることができない。しかし自撮り棒でカメラを支えると、非常に安定したのである。

 そういえば以前,長さ20cmぐらいのミニ三脚にビデオカメラを取り付けて撮影したことを思い出した。このミニ三脚は長さを30cmぐらいに伸ばすことができるので,胸の上に三脚を広げることでビデオカメラを非常に安定させることができた。

 伸縮できる自撮り棒は,ただ伸ばすだけで撮影位置を簡単に設定でき,ミニ三脚よりさらに軽量で細く,持ち歩きには便利だと感じた。

 高い撮影位置からの写真を撮るにはセルフタイマー機能を使う必要があり,また液晶モニターを真っ直ぐ見ることができないし,ズームも自由にはできないなど,必ずしも満点ではないが,縦位置での撮影も可能なので,意外に撮影の幅が広がると思うので,お試しあれ。

1人称で情報提供すると、それは個人の思想になり情報ではなくなる

インターネットとSNSの組み合わせにより、個人が情報発信を簡単にできる環境が生まれた。同時に、広告業界が選ぶのがメディアではなく視聴率だけだという実態が露見した。要するに、情報の質や正確さよりも視聴者数が多いか少ないかだけが、広告掲載の基準ということである。

   このブログのように、顔出しなし、プロフィールなし、匿名での情報発信は、本人が言うのも何だが、情報としては正しいつもりである。しかし、個人のコメントに過ぎず、情報とは言い難い。しかし、現代社会はすべての情報は正しいとして取らえられる。フェイク情報の発信まで当たり前になっているのは、メディア人としては非常に嘆かわしい。

   特にYoutubeInstagramは影響力が大きい。文字や写真はフェイクの可能性を疑ってかかることは容易だが、動画はその個人のリアルという現実を細かく伝えており、信憑性を持たせる効果が高い。同様に、アニメもより現実的になり、情報の信憑性が高い。リアルなものに心を動かされることは、詐欺の手口でもある。

   動画で奇想天外なプレゼンテーションをするのは勝手だが、その影響力を少し冷静に判断してほしい。動画プレゼンテーションは、言い方を変えれば「インターネット大道芸」である。通常の大道芸は、観客がせいぜい30人だが、インターネット大道芸では3000人、3万人にその存在が知られる。まったく素性の知らない人とネットで繋がる。投げ銭も100倍、1000倍が期待できる一方で、誇示情報が悪用されたり、個人的に接近されたりする危険性も100倍、1000倍になる。何よりも、その動画を勝手に使われたり、捏造される危険もある。さらに、情報を消そうと思っても、すでに拡散した情報を取り消す術がない。何年経っても自分のプレゼンテーションとして残り、足を引っ張る可能性が高い。

   この視聴者数という基準に広告業界が食いつき、動画発信者に広告収入を与えるというビジネスモデルが成り立ってしまった。この広告内容も、怪しげな通販商品だったり、講座勧誘だったりする。

   要は、プラットホームであるYoutubeも広告代理店も、金さえ取れればなかみのはなんでもはいいという世界である。筆者から言わせれば、闇メディア、アングラメディアが表に出てきた印象である。

   プラットホームというのも言い方を変えれば「胴元」である。バクチで金が動けば、それでいいという考えであり、倫理感がまったくない。カジノを誘致して胴元になろうとしている地方自治体も同じく倫理感がまったくないと思っている。

   一時に比べて、Youtuberの収入が1/10になったとも聞く。早く目を覚ましてほしい。大道芸は経済効果がまったくないと言えるからである。