jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「当事者」以外は分からない--戦争,災害,事故,障害など

筆者は現在,高校生を含む若い理工学系の読者に向けたメディアに関わっている。最先端におられる専門家にも読め,しかも高校生や大学生が理工学系の将来に夢を持ってもらえるように分かりやすく書き下ろしてもらうことにも配慮した編集を心がけている。 

 高校生向けのコラムも企画する中で,こうした理工学系のキャリアに夢を持って選んでほしいと思う一方,現在の理工学系の進路の停滞感をどう打ち破っていくか,またその道を進むための第一関門にある大学受験,そしてその受験教育についても思いを馳せるのだが,理想論と現実とのあまりの乖離の大きさに愕然とすることが多い。

 大学が専門学校化していることは何度も指摘した。教養課程がほぼなくなり,受験時点で自分のキャリアパスを決める必要がある。その際,受験科目が多い理工学系が積極的に選ばれる理由が見つからない。卒業後のキャリアパスも,かつての工業立国,科学立国ではなくなった今の日本に,夢を見いだせない状況である。

   高校生活は、若者として思いっきり楽しんでほしいし、進路の選択肢をせばめてほしくない。大学で自分に合いそうないろいろな分野を知り、専門コースを選んで進んで行ってほしい---と書いたが、現実的ではないのかもしれない。

   高校生は、大学入試の当事者である。筆者のような外部の人間がいくら理想論を掲げても、当事者はとにかく目の前の入試を突破しなければならない。入試制度の変更に毎年のように翻弄されようが、それに対応しなければならない。

   同じように「当事者」でなければ分からないことばかりである。戦争,災害,事故,障害など、支援はできても当事者にはなれない。逆に「偽善者」と言われかねない。残念ながら筆者は,第3者としてのメディア人であることを言い訳にして,基本的な支援行為はしていない。

 実際,日本はウクライナ紛争にまだ巻き込まれていないが,北朝鮮あるいはロシアのミサイルがいつ日本に落ちて来ないとも限らない。そうなれば日本人は即座に当事者になるのだが,抗議をするだけで当事者意識がほとんどない。

 2023/1/14,15は大学入試のセンター試験である。当事者である受験生は必死である。理屈や文句を言っていられない。とにかく越えるしかない。筆者は,もう二度と大学には行かないと決めているので,受験については第三者である。第三者として客観的に見ると,おかしなことが多すぎると思う。自分のときの受験は40年も前になるが,それと比較してもどんどんおかしくなっているように見える。

 結局,40年前に比べると,知識量は圧倒的に増えている。したがって,「高校ぐらいまでに何を学校で身につけるべきか」をきちんと整理し,単に「教育の平等」ではなく「教育の機会均等」に基づいて教育の機会を与える体制をつくるべきではないか。何でもかんでも指導要領や教科書に従って授業を進めるだけでは,詰め込み,暗記,受験テクニックだけになってしまう。

 小学校の授業として増えた英語,情報,プログラムなど,本当に必要なのだろうか。 バイオテクノロジーの進展によって日々新しい知見が増えている生物の教科書がどんどん分厚くなっていることをすべて教える必要があるのか。 さらに,自然と向き合う最も身近な生物の実験・観察の機会をほとんど奪っていながら,地球環境や生命の大切さなどを実感しないまま,ただ雑学をいっぱい知っていて点数が取れるだけで医療分野に進む人材を育てることが,日本のためになるのだろうか。

 社会が多様な価値観を受け入れる方向に進んでいる中で,日本の教育が画一的にまた詰め込みに向かっているように思える。 本当に大事なことを教えていないのではないか。 また,本当に大事なことを教えることができる先生が育っていないのではないか。 多様な学びの機会,そしてその才能を受け入れられる社会の多様性も作る必要がある。 しかし,すべての多様性を認めてしまうと,正直言ってそれはSDGsであり,あまりにも合理性のない社会になってしまう。 たとえば,すべての障害者にとって快適な環境を作ることは事実上はできないし,当事者の権利ばかり尊重していては,法律もできなければ予算も無限に拡大してしまう。

 子供から若者に至るまでの教育は,その後の人格形成に重大な影響を与える。 思想教育も結局は,その後の人格形成に影響を与え,それが国家の進む方向を変えてしまうことは,日本でもわずか80年前に行われてきたことである。 一種の宗教思想でもあった。 それを利用して戦争へと突き進んでしまった。 現在の戦争も,宗教思想が関係しているとも言われている。 ただ,技術の急進によって,一瞬の判断を誤ると世界の終わりにつながってしまうという危険をはらんでいる点が問題である。

 当事者は,人格として権利を主張することは勝手だが,自分の存在が社会にとってどの程度負担になるかについても思考すべきだと思うのである。その上で,どこまで妥協できるのかも考えるべきではないか。

 効率が最も高いのは,画一の状態である。高度成長期における日本の生産の自動化と同様,一定時間に同じモノを大量に作ることでコストダウンが図れる。しかし,ニーズの多様化に伴って種類を増やせば増やすほど,効率は下がる。その分,個々に付加価値を高めなければならなくなる。多様化に合わせて付加価値の向上をしていないことが,生産性を下げ,負のスパイラルに巻き込まれていることになる。多様性を認める代わりに,どれだけ社会貢献できるのかを,きちんと義務として責任を果たすことを宣言してもらいたい。

 筆者は,東京大学の入試選考をやめて誰でも入学できる大学とし,その代わりきちんと勉強・研究をした者しか卒業させない,という形にすべきだと主張してきた。東大に入れることより東大を卒業できることに価値を持たせるべきだと主張したかったのである。しかし,どうもそれだけでは足りないようで,東大を国立大学から私立大学に変えるべきではないかと考えている。東大が自動的に大学の予算の半分を獲得できるから,その既得権益のもとにあぐらをかいているように思える。その権益を守っている政府・官僚も,同様に変化すべきだろう。

 この変化を暴力的に行うことは許されないし,変化を抑えることを暴力的に行うことも許されない。物理的な暴力とともに,言葉による暴力も許されない。筆者も,相手を中傷しないように気をつけながら言葉で主張をしているつもりだが,結局「当事者」にとってはハラスメントに聞こえることも多々あるようである。

 世の中,結局バラバラな方向に進んでしまっている。相手を倒し,飲み込んで,自分を大きくしようとしているように思える。それぞれが相手の存在を認めた上で,自分を最大化する努力をすることが必要なのではないだろうか。日本は今,何をすべきか,そして1人1人は今,何をすべきか,考えた方が良さそうである。権利を主張して利益ばかり求めると,補助金頼みになってしまい,結局は数年後には破綻するという構図に見えてしまう。