jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

譲られても礼をしない日本人

新型コロナウイルスの一つの“功績”(もちろん皮肉な意味で)は,「マナー」という言葉の復権である。ウイルスが急速に広まり始めた2020年1月ごろから,「咳・くしゃみマナー」が盛んに言われるようになった。今となっては,マスクを着用することが「マナー」として定着しつつある。マナーに基本的に無関心だった日本人が,これほどマスクをきちんと着用するようになるとは思わなかったが,ファッションとしてのマスク着用が主なので,くしゃみをする際に袖を口に寄せるという「マナー」の行動を取る人は皆無である。それでもマスクを着けているだけ,マシなのかもしれない。

 マスクをしていても,飛沫拡散は100%防ぐことはできない。特に布マスクはマイクロ粒子の飛散をほとんど防ぐ効果はない。袖を口に近づける「咳・くしゃみマナー」は併用すべきなのだが,ほとんど見られない。不織布の使い捨てマスクでも,くしゃみの時の息の量ではマスクが顔から浮き上がってしまうため,マスク周辺からの飛散拡散は避けられない。しかしこれも,くしゃみの瞬間にマスクを手で押さえて周辺が浮き上がらないようにすれば,不織布マスクのフィルターを息が100%通過することになり,飛沫飛散をほぼ100%防ぐことができる。

 しかし「マナー」はほとんど反射的な行動であり,頭で考えて実行できるものではない。特にくしゃみは1秒以内に出てしまう。くしゃみの瞬間に口を手や袖で覆う行為は,子供のころから無意識の習慣になってなければできるものではない。

 新しく始まったソーシャルディスタンシングにしても,足元にマークがなければ無意識にできるものではない。たとえば窓口で勘定を支払っているとき,後ろに人が並んで待っているにも関わらず,勘定が終わっているのに少し前にずれて場所を譲らずにいつまでもその場に立ち止まっている人がいる。かと思えば,まだ支払いの最中に後ろからどんどん接近する人もいる。

 海外では,歩道でも左側通行と決め,ぶつからないようにしている。車道を挟んで歩道も一方通行にしている地域もある。日本では昔から歩道では一般に左側通行。歩道が狭いので,すれ違い時には1mの間隔はない。肩がぶつかりそうになるぐらいの間隔である。それでも,お互い10cmずつ外側に譲れば,ぶつかることはないし,ぶつかるかもしれないという不安な気持ちを持つこともないのだが,ほとんど譲られた記憶がない。別にスマートフォンを見ながら歩いているわけではない。それよりもむしろ,歩道の中央を悠然と歩いて,譲ろうともしない人も多い。

 クルマを運転するときでも同じである。クルマは「キープレフト」と教習所で教えられた。右ハンドルの場合,左車線の中央に運転者がいるように走れば,クルマは自然にキープレフトになるはずである。ところが,対向車線でセンター寄りに走ってくるクルマが結構多い。もちろん普通の国産車であったり,右ハンドルのクルマである。車線を超えてくるクルマもある。車線を超えたまま,戻ろうともしない。こちらが譲らなければミラーをぶつけてしまいそうな間隔になることもある。

 出会いがしらでの“マナー”は,「お先にどうぞ」だと教えてもらった。お互いが“お見合い”をしていつまでも動けなくなる場合もあるが,「相手が譲るだろう」と思い込んで突っ込めば衝突事故になる。1秒を争う場合でもないのに,なぜそれほど余裕がないのかと不思議になることがある。

 横断歩道は,歩行者優先である。では,優先ならばゆっくり歩いてもいいのか,というと,待っている運転者のことを考えれば,少し歩速を上げるとか,会釈をするとか,「待っていただいてありがとう」という気持ちを示せば,待っている運転者も気持ちが和らぐというものなのだが,こちらも歩行者側にその「マナー」がなくなっているように感じる。

 逆に,横断歩道で横断待ちをしているクルマに向かって合図をしても全く反応しないドライバーもいる。もっと恐ろしいことに,横断歩道に向かって徐行はしても停まらないクルマがあまりにも多い。どう見ても,アクセルに足を載せていつでも加速しようとしているようにしか思えない。もしその瞬間に歩行者がつまずいて歩みを止めたり,立ち止まってしまったとき,ブレーキに踏み換える余裕があるのだろうか。実際,試しに立ち止まってみたところ,そのドライバーには怒鳴られた。睨みつけられたこともある。こういう余裕がない状態で運転するドライバーが多いことに危機を感じる。

 お互いに譲り合う。譲られたら礼をする。法律で決めなくても当たり前にできていた日本は,どこに行ってしまったのだろうか。世界が不思議がる“譲り合う”日本の姿は,実際は報道が伝えるごく一面を見てのことである。