jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

ノーベル賞が迷走している?--現代の社会パラダイムには合った新たな賞の創設を

2021年のノーベル賞受賞者が次々と発表されている。

 物理学賞に,二酸化炭素の温暖化影響を予測した真鍋淑郎さん,平和賞にフィリピンとロシアの政権に批判的な報道関係者,文学賞タンザニア出身 アブドゥルラザク・グルナさん,化学賞に有機触媒の研究で貢献した2人,医学・生理学賞に 熱など感じる仕組みを研究した2人である。

 気候学を物理学の範疇として選択したり,ジャーナリストの活動を平和賞になど,これまでの傾向と随分異なる感じを受ける。ネタがなくて手を広げた感があるのである。

 筆者がトピックス(ニュース)を探すとき,まずはストレートな話題を探す。しかし,面白そうなネタがない場合,少し範囲を広げて探し直す。ちょっとどうかな,というネタでも,本数が必要な場合は選ばざるをえない。今回のノーベル賞の選考に,何かそんな雰囲気を感じるのである。

 文学賞として,日本人で候補に上がっている作家がいる。海外でも人気の作家である。今回もノミネートされていたが,賞は受けられなかった。しかし,この作家が文学賞を獲得したら,ノーベル文学賞は終わりだという評価もないわけではない。

 世の中には,もう何年間も受賞候補と噂されている人がたくさんおられる。もちろんその成果がすばらしいことは疑う余地もない。しかしたとえば90歳で賞を受けても,すでに別のテーマを目指している人もあるだろうし,そもそも時代が急激に変化しているのに過去のテーマで受賞しても「ありがとう」と言うだけにとどまってしまうのではないか。また,これを受けて,自分もノーベル賞が取れるような立派な仕事をしよう,というインセンティブにならないような気がする。つまり,何かもうノーベル賞を含む名誉賞の意味がなくなっているように思うのである。

 さらに,このノーベル財団にしても,国際オリンピック委員会IOC)にしても,その基金の出どころがそろそろ怪しくなってきているのではないか。過去の栄光を引きずって,逆にそのメンツを保つために,メディアに対して妙に権利を主張したりしている。

 昨今の男女平等のムーブメントにしても,いずれの組織も最も古い体質ではなかったか。さらに,受賞国もかつての欧米優遇が批判されて,より多様性を持たせざるを得なくなり,ほとんど無名と思われる受賞者が数多く出てきて,「この人,だれ?」となって賞の価値が見えなくなってきているような気もする。

 気候変動の基礎理論が,現在の地球温暖化のモデルとされているのは事実だし,気象業界では「真鍋モデル」として有名だと言われている。しかし,真鍋モデルとして教科書に載っているわけでもない。

 逆に,筆者がアメリカに留学していたときに問題となっていた南極上空のオゾンホールについては,米ベル研究所の研究者がその反論の論文を出していた。新規性の仮説論文ではなく,極めて政治的な問題に対して堂々と反論した論文で,筆者が興味を持ってレポートのテーマにしたものである。科学者だからと言って,仙人のように自分の好きなことだけ研究すればいいとは思えない。SDGsが話題になっているから,あるいは人種弾圧がまた問題になっているから,逆説的に受賞者を決めているような,わざとらしさも感じてしまう。

 本当に適切な受賞者選考なのか,場合によっては「該当者なし」「本年は選考を順延」という判断でもいいのではないのか。

 逆に,世の中のパラダイム・シフトを起こしているインターネットやSNS音声認識人工知能AI,ドローン,培養肉,GPS,水素発電などの技術開発について,応える賞は存在するのだろうか。今こそ,ビルゲーツ賞やジェフ・ペゾス賞などが出てきてもいいのではないか。もたもたしていると習近平賞が出てきてしまうのではないか。

 ノーベル賞の財源は,アルフレッド・ノーベルが発明したダイナマイトの特許料がベースになっている。発明→特許→富→還元,という流れである。アカデミックというよりも,リアル経済がベースになっている。LEDの發明などは,同じ流れを汲んでいるが,天文学や気象学などの研究成果が,富につながる構図が見えない。やはり,上記に挙げたような近年の発明に対しての評価を中心に置くべきではないか。ノーベル文学賞の選考方法に不明瞭な点があったことも,明白である。受賞者の選考そのものに無理があるのである。

 COVID-19関連の受賞は今後出てくるのか。それはmRNAワクチンの実現に対するものか,あるいはその基礎となる遺伝子研究者になるのか,あるいは世界に「マスク着用」という習慣を定着させた「日本人」が対象となるのか。

 スウェーデンストックホルムで開かれるという授賞式も儀式めいているし,受賞者が座る椅子にサインをして保存するという伝統もあまりにも形式的すぎる。

 むしろ,若手研究者のテーマをきちんと評価し,そこに研究資金を提供する,という科研費のような基金にした方が,将来の研究素地を拡大するために意味がある。特に,研究予算をカットし,人件費までカットして疲弊している日本の研究者にとっては,魅力的な基金になるのではないか。

 あらゆる分野で,旧態依然な官僚的な仕組みがいまだに幅を利かしているのが,世界経済の歪の原因にもなっているのではないか,と思ったりする。