jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

ペットの「親ガチャ」はもっと深刻

電車ポスターに「その一目惚れ、迷惑です」というキャッチでかわいいトイプードルの子犬の顔がこちらを見つめている。東京動物愛護協会のポスターである。そう、筆者の家のイヌの子犬の時とそっくりである。毛色も同じだ。

 ペットを飼い始める時は衝動的に買わないことを戒めたポスターである。確かに、我が家も最後は筆者の決断だった。何しろ、筆者もこの眼なざしにキュンとしてしまった一人である。

 筆者のイヌ嫌いについては、どこかで紹介した。実家でも中型犬を飼っていたし、噛まれたというトラウマがあるわけでもない。ただ、吠えつかれて怖かったという経験である。知り合いの家でリビングにラブラドールリトリーバーの成犬を飼っていたのには、さすがに手が出せなかった。隣の家の柴犬には最初から最後まで吠えつかれた。そのお隣の家のダックスフントも動作が速く、アッというまに足元に来られて筆者はフリーズしたものだ。

 あるペットショップが送り迎えの通り道にあり、しかもそこは筆者の好きなDIY ショップでもあった。毎週のように立ち寄り、ショップのガラス越しに子犬や子猫を見ているうちに、愛情が湧いてしまったのである。

 最終候補が2匹となり、息子はロングコートチワワ、娘たちはトイプードルと意見が別れた。最終決断は筆者で、「トイプーは毎月カット代がかかって維持費が大変」という理由で、チワワが我が家に来ることになった。

 その後も実は送り迎えが続き、筆者は相変わらずそのDIY ショップに立ち寄っていた。1ヵ月経っても、我が家のペット選挙に敗れたトイプーは売れ残っていた。時間が経てば経つほど、子犬は大きくなってくる。おかしな話だが、商品価値が下がるのである。小さい方がシツケもしやすいし、どの飼い主にもなつくからだろうか。

 そしてとうとうこのトイプーの値段が下げられた。別にそれを狙った訳ではないが、一つの引き金になった。「次の週にまだ売れ残っていたら、ウチに引き取ろう」と。値段を下げてもなおかつ売れない個体は、バックヤードに下げられる。場合によっては見捨てられる。ペット業界のブラックな部分である。

 そしてその日は来た。ショップに行くと、いつもと変わらない笑顔(?)で迎えてくれた。いつものように、後ろ足で立って、ガラスに身体を押し付けんばかりにピョンピョンジャンプを繰り返すのである。

 そして彼女は我が家の2匹目の家族になった。それから11年。人間でいえば60歳を過ぎたオバアチャンになった。筆者と同年齢である。我が家に来て1年目に子宮筋腫が見つかって全摘出手術を受けた以外は極めて健康で、かつ何でも食べる。相変わらずあの真っ黒な黒豆のような両目で真っ直ぐ見つめられると、もうメロメロなのである。筆者の家族もみんなで可愛がっている。多分、2匹は幸せなのではないかと思うのである。実際は分からないが。

 さて、ペットショップに並べられた子犬や子猫は、生後3ヵ月ぐらいである。ドッグフードをようやく食べられるようになった辺りで母親から引き離されて、ガラスケースの中で1日中、人の目に晒されて過ごす。最初は何も分からないだろうがそのうち、自分の運命について感じることもあるのではないだろうか。親イヌに取って代わってあげられる訳もないが、家族として毎日誰かが一緒に暮らしてやり、最期まで看取ってやることは、当然のように思っている。筆者的には、植物葬で彼らと同じところに入りたいとも真面目に考えているのである。

 COVID-19禍で家にいる時間が増えて、気まぐれにペットを飼い始め、その世話が思った以上に大変なことが分かって、飼育放棄する例が多いという。すべてのペットを救うことはできない。無責任なブリーダーや非常識な値段での取引。生き物だけに、もっと慎重な運営が必要なはずだが、それが人間のエゴだと思うのである。

 あのつぶらな瞳に見つめられても、それでもダメなのだろうか。子供の虐待が毎日のように報道される昨今である。ペットにとっても受難の時代なのかもしれない。

 しかし、イヌにとっても親ガチャである。親になろうと思ったのなら、本当の親イヌよりもいい親になってあげてほしい。飼われる犬は親を選べないから。