jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

芸能人といえば,年末年始が稼ぎ時,というのはもう過去の話

今日は2021/12/31の大晦日である。昼ごはんは,珍しく家族で豪華なランチ外食をした。自治体発行の食事クーポンを利用した。

 夕方以降は,年末にかけてのいつものテレビ番組になるのだろう。歌番組か芸能人の年越し番組が定番である。そして,年が開ければ,「おめでとうございます」の連呼となる。

 かつては,お正月には寄席中継がいろいろあった。落語,漫才だけでなく,漫談,手品,大道芸など,普段はあまりお目にかかれない芸能に触れられる機会だった。

 今や一年中,お笑い芸人がテレビに出っぱなしである。常にハイテンションでしゃべるやり方は,話術でも話芸でもなく,ただの言葉の乱射に過ぎないと聞こえる。

 これが高齢者と若者のギャップなのかなとも思うのだが,せっかくの正月休みにゆっくりこたつで楽しむテレビ番組がなくなったと思えるのである。

 かつては,年末に圧倒的な視聴率を稼いだ「NHK紅白歌合戦」に対して,民放局はレコード大賞やライブ・コンサートを対抗させてきた。日本テレビの「ダウンタウンガキの使いやあらへんで」の「笑ってはいけないシリーズ」は18年間続いたが,2021年末には放送されなかった。紅白歌合戦も凋落を続けていた。その代わりに「笑って年越したい!笑う大晦日」が放送されたが,コンセプトのないドタバタで終わったように見えた。

 そういえば,かつては民放といえば,番組と番組の間には必ずコマーシャルが入っていた。番組のスポンサーとしてのコマーシャルではなく,チャンネルに対するスポンサーのコマーシャルという位置づけだったと思われる。ところが近年,1つの番組が終わるといきなり次の番組が始まるようになった。番組の終わりに「次回予告」もないので,番組間の切れ目がなく,気持ち悪く思っていた。

 これはつまり,番組にはスポンサーが付くが,チャンネルにはスポンサーが付いていない,ということになるだろうか。電車の広告で言えば,窓の上のスペースなどに長期間掲載する広告出稿がなくなった,といった感じだろうか。短期間の掲載となる中吊り広告も,週刊誌の中吊りがなくなりつつある。しかし,スペースはなくせないので,鉄道会社の自社企画の広告を出してスペースを埋めているようなものである。テレビの場合は番組間のコマーシャルのスペースを詰めて,その分を番組に回して,そちらで稼ごうとしているように見える。

 番組そのものも,テレビ局が直接企画編集しているものが減り,外部のプロダクションに丸投げ,というものが増えている。出来上がりの質は推して知るべしで,玉石混交だろう。最終的なコマーシャル収入の多くはプロダクションに流れ,テレビ局は放映権収入で食べているだけかもしれない。それでもおそらく視聴率は上がっていないと思われる。広告市場のかなりの部分が,SNSなどのインターネットメディアに流れて行ったからだ。

 正直言って,これはマスメディアの崩壊であり,情報発信の根幹が揺らいでいると感じる。マスメディアは,良し悪しはあるものの,企業の社会的使命のために情報に一定の基準を持っていた。公共放送としてのNHKは,言葉遣いさえ独自の基準を持ち,そのための研究機関さえ持っている。民放局も含めて放送コードと呼ばれる公序良俗に対する基準も持っていた。

 今や,NHKでさえ「ヤバイ」を連呼する時代になった。2018年に10年ぶりに改訂された『広辞苑』第7版で「ヤバイ」は初掲載され,市民権を得たからかもしれないが,あえて使うほどの言葉ではないように筆者は感じる。しかし,お笑い芸人による司会の番組がどんどん増え,民放局ではアナウンサーまでクイズ番組やバラエティ番組に出演者として登場する時代になった アナウンサーのタレント化に苦言--ニュースアナウンサーはAI時代に突入か - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/12/31。

 たまたま,契約しているケーブルテレビのCSチャンネルのつながりが悪くなっている。しばらく前は,結構遅い時間に海外のドキュメント番組を見るのが好きだった。10年ぐらい前からは時間の余裕がなくなり,また番組そのものもワンパターン化が進んだため,あまり気にならなかったのだが,家族に言われてケーブルテレビの不調を昨年末に知らされた。家族は,その分をサブスクリプションで契約しているインターネット番組で見ていたそうである。

 かつてケーブルテレビや民間衛星放送でしか受信できなかったチャンネルが,光ケーブルによるインターネット経由や,さまざまなサブスクリプション契約で見られるようになった。しかもリアルタイムだけでなく,アーカイブされたデータベースから好きな時間帯に視聴できるようになった。リビングルームのテレビでなくても,パソコンやスマートフォンで視聴することもできる。

 クルマも,自家用車を持つことから,シェアリングやサブスクリプションで適時活用する人が増えている。筆者は,自分のクルマに自分なりのアレンジを加えていくのが好きなので,おそらく手を出さないが,若い人たちは考え方が変わってきているのだろう。同じように,情報収集の方法も,新聞やテレビの時代からインターネット経由に変わってきている。筆者宅でもとうとう新聞は取らなくなった。ケーブルテレビは,20年前に地上波のNHK教育テレビ(現在のEテレ)の映りが悪いところに住み始めたころに子供のために契約したが,基本的にその役目は終えつつあるのかもしれない。ケーブル回線によるインターネット契約も,2年前に他社の光ケーブル回線に乗り換えた。

 インターネットが爆発的に拡大した2000年ごろ,低質な情報があまりにも多く,ポータルサイトと呼ばれるWebサイトがある程度のフィルタリングをすることが期待されたが,現在は単なる情報源の集積サイトになっているだけで,その先の情報の精度についての保証が一切ない。さすがに闇チャンネルやブラックリストチャンネルへの直リンクはフィルタリングされるようになったが,それでも次から次へと手を変え品を変え,連結される恐れがある。情報発信元が無限に近くあるため,マスメディアのようなフィルタリング機能が皆無となり,現在のところだれもこれを止めることができない。

 一部で,いじめや性犯罪に関わる情報源とのリンクをAIでフィルタリングする実験は行われているが,ではその基準は何かと言われれば,かつての放送コードのようなきちんとしたものはないし,法的な拘束力もない。法律もなければ,取り締まる警察側にも知識がない。さらに犯罪性を立証するよりも,現在法の視点で無罪にする弁護側の方が圧倒的に有利で,被害者救済のための仕組みも不完全である。

 おそらく,人の良心に訴える,というやり方は,そもそもは理想論なのだろう。正直者がバカを見る,というのは,おそらくどの動物の世界でも同じなのだろう。人類の起源においても,最初に食料(富)を得た者がリーダーとなり,尊敬を集め,子孫を増やすうちに,自分が他の者とは別格であると思い込み,私腹をこやし,さらに悪知恵を働かせるようになっていったのだろう。

 第二次世界大戦の後に,日本に富をもたらしたのは製造業だった。世界からJapan as No.1と賞せられた。しかし2000年以降のインターネットの発達による情報競争において,かつての電電公社(今のNTT)系列の通信会社はソフトウエア面で遅れを取り,いち早くソフト重視のビジネスモデルを確立したGAFAが世界を席捲した。製造業も,社会の賃金格差の大きい中国が,国全体の財力と一党支配の力によって,短期間の膨大な設備投資と超低コストの人件費により,世界の工場の地位を一気に奪い取ってしまった。

 日本が一時期世界を席捲したアニメーションも,今や中国の下請け化が進みつつあるという。歌の世界では,韓国が英語圏に一気に進出し,韓国流のダンスパフォーマンスが世界に広まった。日本からの発信は,ごくわずかであり,逆に韓国流を取り入れたグループが増えているように見える。しかし,世界に羽ばたくグループが出てこない。

 さて,話を芸能人に戻すが,結局,日本ローカルで,しかも仲間内だけのドタバタ劇をしている,お客様は関係ない,というのが現在のお笑い芸能である。もっとも客不在と言ったのは筆者の視点であり,現在の若者はこのドタバタ劇がいわば自分たち世代のエンタテインメントだと受け入れているため,視聴するのだろう。そこには道徳もなければ常識もない。さすがに放送局側は下半身映像だけをブロックしているが,実際の現場では明らかに一線を超えたパフォーマンスが行われている。

 かつて家庭用VTRによってテレビ番組予約録画ができるようになって,筆者はありがたかった。時間をコントロールできたからである。いまや,録画したい番組が非常に限られてきている。同じレコーダーで家族が予約録画する番組のほとんどは,筆者に関心のないものである。たまにちらっと見て,こういう番組が今は好まれるのか,と愕然としつつ,実際はインターネット経由で全くコントロールされていない情報に晒されているのだと思うと,実に末恐ろしくなる。

 筆者はあと10年の命と思っているが,筆者の影響を受けて育った息子たちは,おそらく現在のこの風潮に完全には適応しきっていないと思うし,できれば適応してほしくないとも思っている。したがって今後,国内でも国際的にも,さまざまな場面で苦難が待ち受けているのではないかと思う。自分を失わず,しかも完全に対立することなく,うまく渡り歩いてほしい。ただ,現在彼らが考えている職業選択は,かなりの精神的な苦難が予測されるので,やや心配である。筆者はメディア人として,適切な情報発信・伝達についてもう一度真剣に考えるべき段階だろうなと考え直した2022年の新年の朝であった。