筆者は仕事上,他人の文章を読んでチェックすることも多い。基本的に,その人の文章はその人の責任であり,その人の個性なので,漢字や文法的な間違いを指摘修正し,出版物の書式に従った加筆修正は行うものの,そのほかはそのまま通してしまう。細かい部分まで修正を始めたら,キリがないからである。文責は執筆者にあると考えている。
差別的表現に注意することも,メディアの責務としてフィルタリングしてきた。筆者が社会人として働き始めた40年前と比べても,表現の基準はどんどん変わっている。ポリコレ--初めて聞きました - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/2/20。
性表現についても,基準がどんどん変わっている。筆者は頭がもう古いので,首をひねりたくなるような表現がどんどん増えてきているように感じる。カタカナ語で表現されていたものがおそらく生々しさがあるということで,これを無理やり漢字による熟語表現に言い直しているケースで,かえって具体的なイメージを持ってしまうものもある。性犯罪の報道でも,違和感を感じる。
メディア側の表現修正の対応については,世の中では「忖度」という言葉で捉えられているのかもしれない。筆者としては,嫌な言葉である。政治家や皇室の周辺で使われているような「勝手に判断して」いるわけではなく,世の中のためにフィルタリングの判断をしているからである。もっとも,メディア自身が攻撃を受けないための自主規制という意味合いがないわけではない。
NHKをはじめとするマスメディアは,表現についての自主基準を持っている。それでも「放送事故」が起こる可能性はある。ニュースなどリアルタイムでの報道については,修正が効かないからである。「不適切な表現がありました」と修正をするしかない。しかし,訓練された社員アナウンサーでの放送事故は少ないが,フリーのアナウンサーやゲストコメンテーターの口に戸を建てることができない。芸能人コメンテーターは問題外だが,その道の専門家と言われる人たちも,差別的表現,性表現についての教育や指導を基本的に受けていないので,スルーして放送されてしまうことが多い。逆に,文字メディアでフィルタリングをした場合に,表現を改ざんされたと訴えるケースもないわけではない。
マスメディアの存在意義は,文字文化,映像文化に対する一定の基準を示すことだと思う。NHK(日本放送協会)は特殊法人だが,そのほかのマスメディアは基本的には営利企業である。自主規制はいわば,自身を守るための盾と言えなくもないが,1つの理性の表現でもある。
一方で,国語辞典の編纂も1つの基準なのだが,近年の言葉の乱れが国語辞典に大きく影響を与えているように思える。岩波書店の『広辞苑』は,2018年に第七版が10年ぶりに発刊された。三省堂国語辞典は2021年に第八版が発刊された。第七版が2014年なので,これも7年ぶりの改訂である。
筆者は,自分が属していた雑誌社がその親会社が作っていた用語集を基準としていたことが自分の基準になっており,基本的に新語は使わないことにしている。新語を使うと何となく軽く安っぽく見えるような気がするからである。しかし,おそらく広辞苑第七版での掲載によって,NHKでも「ヤバい」という表現が当たり前のように使われるようになったことには,かなりの懸念を持っている。三省堂書店に至っては,その編集委員の普段の言葉収集活動がメディアで報道され,こんな基準で言葉集めをしているのか,とあきれてしまったものである。
街中での若者の会話や店の看板などに現れる言葉は,まさに表現の自由の世界である。「自由」と言うより「勝手」と言ってもいいかもしれない。「自由」と「何でもあり」は違うと思うからである。何をやってもいいのであれば,教育も理性もマナーもエチケットも必要ないからである。辞書への収録については,編集者もかなり気を使っているとは思うが,やはり形に残すに当たってはもう少し理性があってもいいのではないかと考える。「現代用語辞典」「新語辞典」など,別の形で表現した方がいいと筆者は考える。
こうした理性を持って責任を持って情報を発信しているのが,マスメディアが言葉や映像の文化を守るための存在意義の1つだと信じている。しかし,インターネット時代にすべての人が自由に(勝手に)情報発信できる時代になり,言葉も映像も表現の規制が一切できなくなってしまった。自分で言葉を発信し,映像も自作・編集して発信できる。そこに何の自主規制も理性もない。まさに勝手情報である。
SNSにおける誹謗中傷が跡を絶たない。リアルの世界では自分にも被害が戻ってくる可能性があって,それが抑止力になるのだが,バーチャルな世界では自分には被害が返ってこないし,無記名で簡単に発信できるので,罪の意識がない。ゲームの中で相手を攻撃して殺傷するのと同程度の意識でしかない。しかし,その相手が実際の人間であり,言葉による攻撃によって大きな精神的なダメージを受けていることにまったく配慮がない。いやむしろ,SNSを通じて相手にダメージを平気で与えることができる環境を得て,人間の残酷な本心がむき出しになっている感じである。
リアルの世界においても,陰湿なイジメが行われている。セクハラ,パワハラなど立場の上下関係から生まれる犯罪もあるが,同年代における村八分や言葉による暴力が行われる。かつては,先生と生徒の間には,先達に対する尊敬の意識や憧れの気持ちがあったが,近年はモンスターペアレントによる圧力に屈して萎縮してしまう先生が多く,生徒からの信頼も得られず,指導のための行動が「体罰」として吊るし上げられ,子どもが「勝手」な道を進んでしまってもそれを修正できない。ここでも「自由」の意味が履き違えられているのを感じる。
マスメディアでの一定の基準の提供は,1つの文化的な価値を与えていると思う。これに対して,SNSでの情報発信は,文化とは思えない。メディアの主軸がインターネットに急速に移りつつある中で,言葉や映像の文化の混乱の歯止めが効かないのが,マスメディア人としては懸念しているところである。
SNSでの誹謗中傷を排除するためのAI利用傍受の法制化を提案 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/2/5 でも提案したが,プラットフォーム側に問題意識が欠如していることから,これをチェックする機関が必要ではないかと考える。しかし,おそらく1秒間に数万件以上もアップロードされるSNS情報をリアルタイムで管理するのは,人間のフィルタリングでは間に合わないし,継続的な運用は無理である。AIの導入を提案したのは,こういう理由である。
「死」や「殺」などの言葉の単純なフィルタリングだけでなく,インテリジェンスが必要と思われるからである。