jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

2020年のNHK紅白歌合戦に思う。

悪夢のような2020年末は,NHK紅白歌合戦を観た。例年は子供たちが他局の娯楽番組を観ることが多く,部分部分を観るだけだったが,今回は無観客での開催がどのように行われるのか,少し関心があったことと,他局の娯楽番組の質がさらに低下していたらしく,子供たちも紅白を観ることに文句がなかったためである。

 一時期,紅白の視聴率が低迷していたため,さまざまな改善策が講じられていた。1部を若者向け,2部をベテラン向け,などと分けたりした。

 これまでの紅白は,両チームの大ベテランが最後を飾ることで盛り上げるパターンが続いていた。出場回数最多となるような大ベテランと言えば,たいていは演歌の大御所と相場が決まっている。呼び方も「オオトリ」。取りを飾るのは,演歌の大御所だった。

 すでにそのパターンは崩していたのかもしれないが,2020年末の紅白は,福山雅治MISIAが各チームの最終歌手だった。司会者からの紹介の方法も気を付けて聞いていたが,「オオトリ」との表現がなかった。ベテラン主導パターンから脱皮しているようだ。それでも,超ベテランの北島三郎との自宅中継を加えたのは,まだ縁が切れていないからなのか。

 福山雅治は,毎年紅白には出演しているが,例年は自分のコンサートの中に紅白への中継を挟む形でのチョイ参加だったが,今回はNHKホールで実際に歌った。ほかの出演者が,数時間にわたって紅白の会場で他の歌手の演技を「応援」しているのに,自分はその時間を自分のファンへの公演に使い,チョイ参加で辻褄を合わせるという手段を取っていた。「失礼にもほどがある」と毎年思っていた。今回は,NHKホールで歌うが,その見返りとして最終公演者の場所を得た,ということなのではないか。新型コロナウイルス禍で,おそらく自分のコンサートが開けなかった,あるいは自粛と称して開かなかったので,その代わりとして紅白の会場での出演をした,と勘繰ってしまった。

 総合司会の内村光良は4年連続だった。昨今のお笑い芸人の大進出のきっかけになったのが,同氏の司会業での活躍だろう。ウッチャン・ナンチャンのコンビでの漫才から,南原清隆もそれぞれ司会業も務めて活躍している。話芸が堪能なだけに,司会業も務まるわけで,おそらくNHK冠番組を持ったタモリ氏以来の人材ではないだろうか(もちろん,所ジョージ氏も逸材ではある)。

 タモリ氏は長年にわたって他局でバラエティ番組の司会を務めた。芸能界の中できちんと進行ができる唯一の人物ではないかと思う。下品な突っ込みをしない,博学である,大声で恫喝しないなど,常識の範囲で進行をされている。内村氏もなかなかである。最後のセリフまで,きちんと伝えられるそのまじめさが伝わってくる。

 お笑い界の人材にも幅があると思う。何より,自己主張をしないで番組を進行できることが,バラエティ番組ではない番組の司会者として必要不可欠な要素だと感じる。サンドイッチマンの二人による「病院ラジオ」も,出演者である患者さんやその家族に配慮した進行になっていると思う(残念ながら,同じ二人による「サンドのお風呂いただきます」は,企画そのものへの抵抗もあり,受け入れていない)。逆に,ダミ声の笑福亭鶴瓶上田晋也明石家さんまは,自己主張が強すぎて,NHK向きではないと感じる。同じダミ声だが立川志の輔氏の「ガッテン」司会は,トーンを抑え,さすがに絶妙である。

 お風呂の話題が出たところでついでに,相変わらずハダカ芸が止まらない。若手もベテランもこの捨て身芸はテレビでは出さないでもらいたい。また番組企画側も,ハダカ芸は出させないでもらいたい。公序良俗に反する行為である。

2021年に思う。「ア話食」な人たちから遠ざかる。

特別な2020年が終わり,2021年に入ってしまった。冬場に入り,空気の乾燥によるウイルスの感染能力持続時間が数倍に伸びること,気温が下がったことによる人間の抵抗力が低下すること,そして年末に明らかになった新型コロナウイルスの変異ウイルスが世界拡散を始めたことなどの要因が重なり,感染拡大が止まらない。

 遺伝子ワクチンの安全性に対して警鐘を鳴らしている科学者も多い。遺伝子組換え食品も,たとえば害虫に強い野菜がすでに海外を中心に大量生産されており,収穫量の増加とともに,農薬使用の激減による安全性を向上させ,生産者,消費者ともに利益を受けている。たしかに,遺伝子組換え食品がヒトの世代を越えて影響がないことまではまだ実証されていないため,できれば食べないという選択肢はあり得る。

 同じように遺伝子ワクチンも,接種によって次世代以降に何等かの影響がないことは,まだ証明できない。これにはまだ数十年の追跡が必要になる。

 ワクチン接種による直接的なアナフィラキシーショックなどの副反応の危険性はあるにしても,発症を抑制する効果があるなら,接種しないという手はないのではないかと筆者は考えている。特に,次世代をすでに生み育てた働き盛りの年齢以上の人たちは,接種を受けるべきだろう。子供の年齢帯は,比較的重症化リスクが少ないし,若者世代はワクチン接種よりもPCR検査で陰性陽性を判定して,自分の行動を決める方が適切な

措置になるのではないだろうか。

 遺伝子ワクチンは日本でもなるべく早く接種を始めることが望ましい。同時に,これまでの実績のある弱毒性ワクチンも並行して開発し,安全性も確認したうえで全世代向けに接種できるようにしてほしい。

 もう一つの特効薬は,いまだに決定打がない。インフルエンザの特効薬も,エイズの特効薬も,効くケースもあるがはかばかしくない。新型コロナウイルスによって引き起こされる肺炎COVID-19は,一般的な細菌性肺炎と異なり,抗生物質で細菌を攻撃して修復できるタイプではない。

 もともと,一般的な肺炎も修復するのはなかなか困難である。抗生物質の投与によって原因菌を殺した上で1週間ぐらいで肺の機能を回復させるのとは異なる。肺の機能が急激に低下するため,酸素吸入では間に合わず,ECMOという人工肺で酸素-二酸化炭素交換機能を代替させ,肺の機能が回復するのを待つしかない。

 いまの状況だと,日本でのワクチン接種は予定よりも遅れるだろう。予定では,2月に医療関係者,3月に高齢者,4月以降に一般の人,ということだが,たぶん「安全性に疑問がある」として3月の高齢者接種の途中で中止,延期されると見ている。

 この「安全性に疑問」に科学的根拠はない。おそらく,海外でワクチン接種によって発生した副反応をマスコミが過大に取り上げ,政府は安全側に逃げて接種を中止する,というシナリオである。これによって,第4波の拡大につながるのではないかと思っている。

 個人的には,テレワークの継続しかないかと思っている。以前にも書いたが,「アルコール」+「会食」+「会話」をやめない人たちがいる限り,感染拡大を抑えることはできないというのが現在の考えである。「アルコール」+「会話」+「会食」をストップ! - jeyseni's diary (hatenablog.com)。このような行動を取る人たち(「ア話食」な人たち)から逃れることが,自分たちの身を守ることにつながると思っている。

 政府が非常事態宣言を出そうが,「ア話食」な人たちは自分の行動の見直しはしない。残念ながら,日本ではロックダウンはしない。何かの政策を実施してもその責任を取らないから,結局実施しない,という「石橋を叩いて渡らない」優柔不断なのが日本である。

 オリンピックも,おそらく中止になるだろう。やめるという決断をしなかったために,その間,延々と延期を続けて,多くのお金をドブに捨てることになる。1日でも早く,中止宣言をして,必要なキャンセル代を払った上で,残りのお金を新型コロナウイルスの撲滅と,医療崩壊への援助に充てるべきである。そのツケは,結局国民に回ってくる。安部元首相も,森委員長も,結局責任は取らない。新型コロナウイルスのせいにして終わるだろう。自分たちには,結局なんの被害も及ばない形で決着させるのだろう。

 予算が史上最大になる,といっても,結局は大量の国債を発行し,借金を次の世代に移すだけである。自分たちは,のうのうと大量の資産を保有したまま,騒ぎが起こる前に世の中の動きから身を隠して逃げおおせる,という作戦である。人間,名誉と地位とお金を持つと,本当に鬼となってしまうのだなと思ってしまう。大臣になれば,平気で賄賂を受け取ってしまう。「先生,先生」と呼ばれると,人間,フラッとしてしまうものなのだろうか。それを成敗するのが「鬼滅の刃」なのではないのか。しかしここにも金の亡者ができてしまっている。まさにミイラ取りがミイラになった構図である。

 2020年は,かつての1925年の世界恐慌に匹敵する経済破綻の年だったが,人の人としての行動パターンを根本から覆された年でもある。マスクの着用が世界の日常になったが,2021年はひょっとしたら「ガスマスク着用」が次の日常になるかもしれない。外出時は「宇宙服(のような完全防護服)の着用」が必要になるかもしれない。産業だけでなく,人の生活のパラダイムもシフトする必要が出てくるかもしれない。酸素のない空間と酸素のある空間を仕切るのが,宇宙基地だとすると,ウイルスのある空間とない空間を仕切る,ホワイトロックダウン基地を物理的に構築する必要があるかもしれない。『進撃の巨人』の,街を取り囲む城壁のようなものである。

 このブログを読んで,まさか,と思われている読者が多いと思われるが,ウイルスの拡大スピードを考えると,この戦いに人間が負ける可能性がないとは言えないと,思うようになっている。筆者としては,まず自分の身を守り,家族を守る,ということに専念していく年になるだろう。いくら提案しても,聞く耳も考える頭も持たない人達にとっては,まさに「馬の耳に念仏」である。グッバイ。

イヌの散歩についての考察

我が家には小型犬が2匹いる。現在,2匹とも10歳。そろそろ老犬だが,今のところ元気で,毎日朝夕の散歩は欠かせない。

 ウチの犬たちは,犬が嫌いである。生まれて数カ月で我が家に来て以来,ずっと家犬で,散歩のとき以外,ほかの犬と接する機会がない。ドッグランには,これまで2回しか連れて行ってやらなかった。近所にはほかに2匹の犬がいたが,1匹は隣の家にいた柴犬で,飼い主以外には懐かないらしく,筆者もずっと吠え付かれていた。もう1匹はダックスフンドのおばあちゃんで,とてもやさしい子で筆者にも懐いたが,ウチの犬たちは吠え付いて交流ができなかった。

 ということで,散歩に出てほかの犬を見るとレーザーロックをかけて戦闘態勢に入る。距離が近くなって最初に吠え掛かるのは残念ながらウチの犬である。

 家族が散歩するときは,ウチの犬を押さえたり抱っこしたりして向こうが通りすぎるのを待つのだが,筆者は犬たちに吠えさせてストレスを与えるのが可哀そうなので,脇道があれば曲がり,向かってくれば回れ右をして遠回りをするようにしている。

 こちらがわざわざ脇道にそれているのに,わざわざついてくる犬もいる。犬がついてくるというより,飼い主がけしかけているように見える。

 飼い主の中には,どの犬にも社会性があって交流好きだと思っている人が多いようだ。大型犬の場合は,小型犬に吠え付かれてもビクともしないから,こちらが散歩させていてもどんどん近づいてくる。

 犬と犬との交流については,彼らの本能なので仕方がないと思っている。困るのは,飼い主が配慮してくれないことである。ロックオンされたと思ったら,接近させないように止まる,あるいは別の道に曲がる,などの判断をしてほしいのだが,2/3の飼い主はお構いなしでどんどん近づいてくる。

 周りに配慮ができない飼い主が多いなあと,こちらも我がままな飼い主が言っているのはお互い様かもしれないが,それでも犬のウンチがあちこちに放置されている状況を見ると,そういう配慮をしない飼い主が別にいることも確かである。もちろん,犬を飼っていないお宅からすると,自分の家の前で勝手にウンチやオシッコをする犬そのものが嫌い,という人も多いだろう。なかなか人間模様が浮かぶ犬事情である。

 

ロータリー除雪機が到着

2020年年末,「数年に1度」の寒波が襲来するという。注文していた手動式ロータリー除雪機は,年明け到着の予定だったが,昨日12/29に到着した。

手動の除雪機を注文 - jeyseni's diary (hatenablog.com)

本体のロータリーと除雪ブレードは組み立て済みで,これにU字型の押し棒をネジ止めして組み立てる。なかなかガッチリしているように見えるが,ブレードがプラスチック製で,このネジ止め部の強度にやや不安を覚える。

 組み立て図には,「10cmぐらいの新雪」とある。3年に一度のドカ雪は20cmぐらいはあるだろう。しかも湿った重い雪である。踏み固められたら歯が立たなくなりそうだ。出番は,スピード勝負であろうと思った。

 数日前,息子が友人と星を見に山の方に行くというので,クルマのタイヤをスタッドレスに交換した。幸い雪も降らず,道の凍結もなかったようだが,曇り空で星も見えなかったようだ。

 筆者も雪道走行の経験はほとんどない。5年ほど前,長野県で冬場に開かれたあるイベントに娘が1日遅れて参加するというので,クルマで送ったことがあったが,高速道路は除雪されていたし,会場に至る道も雪を踏むことはなかった。唯一,会場となっている体育館に分岐する小道に雪が積もっていた程度だった。我が家の周辺でドカ雪が降った翌日は,路地から出て駅に行くまでの間にある程度雪を踏んで走らなければならないが,基本的に車道の雪の量はおおむね取り除かれており,スタッドレスタイヤで十分対応できた。

 スキーに行くなどということになると,山道では雪の上を走行しなければならなくなるのだろう。夜間は道が凍ることもあるだろう。そういう道での走行の経験がないので,あえてクルマで行くことは薦めていない。先日の関越自動車道の雪による立ち往生にしても,管理会社が「甘かった」と言っているぐらいである。用心に越したことはない。

 手動式ロータリー除雪機は,この年末に活躍するのか,はたまた歯が立たないのか,あるいは使わずに済むのか,またレポートしてみたいと思う。

クルマのマナーをもう一度

筆者がクルマの運転をするのも,あと10年がマックスと考えている。自宅の壁の角や,駐車場の曲がり角の柱,バック時の交通標識など,さまざまな場所にぶつけたりこすったりしてきたが,何とか対人・対物事故はこの40年間一度も起こしていない。とはいえ,最近は免許の更新が5年になったことから,ゴールドをキープするのはなかなか難しい。数年前に間違えて右折禁止交差点で右折した違反のために,今でもブルー免許である。

 クルマの運転の得意な人や業務で乗っている人からすると,筆者の運転はカッタルイと見られていると思う。車種もワンボックスのノーマルタイプなので,加速も悪いし,後方から来たクルマにとっては視界を遮る厄介なクルマなので,きっと追い越したくなる運転をしているのだと思う。

 そんな筆者から見ても,最近のクルマのマナーは著しく下がっていると感じる。ジジイのたわごとではあるが,まとめてみたいと思う。

①曲がる直前までウインカーを出さないクルマ

 一番イラつくのは,信号待ちしているときのウインカーを出さないクルマである。ウインカーは,次の自車の動きを周囲に知らせて接触されたりすることから自車を守るため,つまり自分のためにある。対向するクルマがある場合は,直進するのか,右折するのかによって,相手にスムーズに加速してもらうことで,交差点を早く抜けたりできる。それを,信号が青になるまでウインカーを出さず,青になってから急に右折ウインカーを出すケースが非常に多い。ウインカーを出すことで,車内でもランプが点滅するので,それが嫌なのか,それとも点滅を繰り返すことでランプが早く切れるのが嫌なのか,とにかく「ケチくさい日本人」を象徴している。

②縦列停車中に非常警告灯の点滅をやめないクルマ

 非常警告灯は,基本的に後方から来るクルマに対して減速や停止をするための合図と,単独停車中の周囲へのアピールが目的である。1台だけで停まっている場合は,近づくクルマに対するアピールとして使用しても問題ない。しかし,縦列停車をしている時に,最後尾でもないのに非常警告灯を点滅させる意味はまったくない。自車が停まっている後ろにクルマが停まったら,点滅を停止するのがマナーだと考えている。でないと,後ろのクルマの運転者はずっとこの点滅をずっと見せられ続ける。まことに迷惑である。周囲に気が回っていないことを感じる。「思いやりのない日本人」を示している。

③ブレーキランプを乱用するクルマ

 ほぼ定速走行中に,前のクルマがいきなりブレーキランプを点灯させることがある。減速するのかと思ってビクッとして当方はアクセルを緩めて減速するが,実は前車はそれほど減速しない。これは,右足でアクセル,左足でブレーキという使い方をしているドライバーに多い。つまり,アクセルを緩めてエンジンブレーキを使って減速する,という技を使わずに,ブレーキを踏んで減速するという方法で運転しているのである。

 前方に赤信号が見えてきて,筆者のクルマはエンジンブレーキで減速した後,停止のためにブレーキを踏んでそのまま停止する。つまりブレーキの踏み込みは1回である。しかし,左足ブレーキ車は,おそらく停まる前に5回はブレーキランプが点灯する。点灯しては消え,また点灯しては消えを繰り返す。まことに迷惑なブレーキングである。

④時速8kmまで10秒かけてバッテリー運転しようとするハイブリッドカー

 エコ運転の基本は,急加速をしないことだという。基本は,時速20kmまで10秒かけてゆっくりと加速してエンジンの回転数が上がってから,アクセルをより深く踏み込んで加速すると,エンジンのちょうどトルク効率のいいところで回転させられるため,燃費向上につながる。

 これに対してハイブリッドカーは,バッテリーで運転する時間が長いほど,ガソリンの使用が少なく,総合燃費が上がる。バッテリーからエンジンに切り替わるのが,時速8kmなので,ハイブリッドカーの運転者は,クルマを動かし始めてもなかなかスピードを上げず,なるべくバッテリーで動かそうとする。信号が青になっても,ノロノロと動き始めるのがハイブリッドカーである。これが迷惑である。

 モーターのいいところは,ゼロ回転のところでトルクが最大になることであるが,ほとんどのハイブリッドカー運転者,電気自動車の運転者はこれを知らない。ガソリンエンジンは,低速回転ではトルクが出ないので,エンジンの回転を上げ,この回転を変速機で低回転数に変換し,トルクを稼いで発進するが,モーターはこの変速機なしで発進できるのである。テスラモーター車や慶応大学のエリーカがスーパーカー以上の加速性能を持っているのはこの発進時トルクのおかげである。日産自動車e-powerが,駆動をモーター1本に絞り,小型エンジンを発電専用にした理由はここにある。同社のスポーティカーであるスカイラインがこのe-powerでモーター駆動にしたのもうなづける。

 したがって,ハイブリッドカーでも,発進時にモーターで加速して,その速度でエンジンの最適回転域につなぐ流れも,燃費向上には役立っているはずである。トロトロ発進しなくても大丈夫なはずである。筆者も,初代プリウスから関心があったのだが,残念ながら財力がなく,いまだにハイブリッドカーすら試すことができていない。

 時代の流れとして,エンジンカーはモーター車に代わる可能性が高い。問題は,いまだにバッテリーの最適解がないことである。リチウムイオンバッテリーも,希少メタルの供給の問題,リサイクルの問題,安全性の問題を抱えている。化学反応を利用する電池に比べて,物理の原理を利用するキャパシタのクルマ用への実用化が待たれる。

⑤夜の信号待ちでの前照灯を消さないクルマ

 道路交通法では,「夜間走行時には前照灯を点灯すること」が義務付けられている。これを根拠に,夜の信号待ち時に前照灯を消さないことが正しいと主張する評論家がいる。ならば,信号で停車しているときは,前照灯を消しても問題はない。むしろ,前照灯を消す方が周囲には優しいと,筆者は考えている。

 まず対向車に対して。前照灯の照射角度は,平らな状態で基準が決められている。ところが,実際の道路が平らであることは稀である。軽い上りから平らな道につながる交差点では,対向車の前照灯は上を向いている。まぶしい。消してほしい。

 もう一つは歩行者に対しての安全面での問題である。歩道のある交差点で,対向車の前照灯の光があると,歩道を歩く人がこの光の中に消えてしまう。そこに右折しようとすると,右側のクルマの前照灯の光の中に歩行者が消えてしまう。まことに危険である。

 新車紹介をするテレビ番組を持っていた著名な自動車評論家は,交差点での前照灯消灯に否定的だった。理由は,歩行者の足元を照らして歩行の助けにする,というものだった。街灯のない真っ暗な交差点ならこの理屈はわからないわけでもない。筆者も,真っ暗闇の道では前照灯は消さない。しかし,普通の横断歩道があるような道路は街灯があり,歩道が真っ暗なことはあり得ない。

 もっとも,最近のクルマは,なんでも自動化されている。暗くなれば自動的にライトが点灯するようになっている。トンネルの出入りの時も特段の操作をしなくてもライトが自動的に点灯消灯する。夜間は,走行時も停車時も前照灯が点いたままになるのである。シートの位置,ミラーの角度なども,運転者によって自動的に調整されるクルマもある。確かに,夜間無灯火走行などの細かい操作のミスを減らすことはできるかもしれないが,クルマに乗る場合は運転者がもっと主体的になるべきなのではないだろうか。それは,自分の身を守り,周囲にも迷惑をかけない,ドライバーとしての最低の心構えなのではないだろうか。

 ほかにも,あおり運転,キープセンター走行,年配者のスロー走行など,クルマのマナーはますます悪くなっているように思う。事故に巻き込まれる危険も高く,筆者自身もだんだん運転したくなくなってきている。視力に低下,判断力の低下などもこれから進むことだろう。一時期,無人走行車に否定的な考えを持っていたが,街や道路のインフラ整備も含めた人に優しい街づくりの中で,無人走行車が使われることに期待するようになっている。この面では,トヨタ自動車が先行している様子なので,がんばってほしいと思うが,首都圏はまだ遠い先だろうなと絶望感も持っている筆者である。

「Go Toトラベル」で精神的貧困層の劣悪マナーが露見

「Go To」キャンペーンは,今さらながらだれが何のために仕掛けたものなのだろうか。税金を使い,人を動かすことで,観光地への人の移動を増やし,現地の需要を喚起する,ということだったようだが,とんでもない人たちが観光地に訪れたようである。

 まず,キャンペーンによって通常より安く行ける,ということを逆手に取って,通常より高級な旅館やホテルを選ぶ,という現象が起きた。セレブ御用達のホテルにセレブでない人たちが押し寄せた,ということである。セレブにとって当たり前のホテル設備や待遇は,セレブでない人たちにとっては天の上の世界。見るもの聞くものすべてが珍しい。そこで出てくるのが,昔からの日本人の悪いクセである貧乏人根性である。ホテルのシャンプーからタオルから飲料まで,目の前にあるものを片っ端から持ち去ってしまっているのだそうだ。

 つまり,自分は割引でお金を少な目にしか払わないでおきながら,現地で土産物を買うわけでもなく,逆に現地のものを盗んで帰る,という精神的貧困層の劣悪マナーが爆発したというわけである。

 受け入れ側のホテルは,せっかく来てくれたお客様に最大限のサービスを提供し,感染拡大しないような気づかいも最大限払っているにも関わらず,お金を落としてくれず,逆に盗人を働かれているのである。踏んだり蹴ったりである。

 Go Toキャンペーンの一時中止が発表されると,一斉にキャンセルが始まった。割引がなくなるから行かない,というのでは,観光地に失礼ではないか。現地のことを考えたら,キャンペーンはなくても現地に行って現地にお金を落としてあげることが,助けになるのに,それをしない。観光地も旅行業者も,結局は手数ばかりかかって得るところは少なかっただろう。

 結局これも,アベノマスクと同様,税金の無駄遣いに終わったのではないのか。お客様は増えて,仕事ができたことはよかったかもしれないが,徒労に終わったのではないのか。

 イギリスで見つかった新型コロナウイルスの変異ウイルスが,成田空港の検疫でのPCR検査とその後の遺伝子解析によって,日本に上陸したことが確認された。成田空港という「出島」と,検疫という「関所」,PCR検査という「通行手形」を通して初めて国内への感染拡大防止が維持された。

 「Go To」キャンペーンで本当に人を安全に観光地に移動させたいのなら,変な割引ではなく,PCR検査を割り引いて受診させ,陰性だったら自由に旅行に行ってもいい,ということにすれば,健全な運営が可能である。陰性という通行手形を持っていれば移動して構わない。すべての移動を止める必要はなくなる。

 「PCR検査とセットで割引」というパック旅行を提案した旅行者を称賛したが,これはすべての旅行に対して適用すべきだった。年末年始「静かな年越しを」というお願いが出ているが,通行手形を取ればむしろ移動しても構わないのではないのだろうか。

 新たな感染確認が出て,その周囲の濃厚接触者をPCR検査すれば,感染確認者が増えるのは当たり前である。まずその一人の感染者を出さないような,ホワイトエリアの確立をすべきではないだろうか。まだ今の日本ならそれができるのではないだろうか。イギリスやアメリカなど,感染爆発してしまう前に,何とか対策を講じてほしい。政治家たちも冬休みというのが本当に解せない。

女性の魅力と男性の魅力

フィギュアスケート全日本選手権をテレビで観た。観客も席数の半分ぐらい入り,声を掛けない拍手とカードだけの応援だったが,選手との交流はできていたようだ。女子も男子も予想通りの紀平さんと羽生さんが優勝。これにジュニア優勝者やシニアになったばかりの若手が絡んできている。代替わりも激しい種目である。

 何度見ても,2回転,3回転,4回転が目では数えられない。踏み切りの足,着地の足,そしてそのエッジ使いによって,技の種類が違うそうだが,それも見えない。スローモーションで見ても,右か左か外側か内側かが見えない。解説者はともかく,アナウンサーも的確に技を解説してくれる。驚きである。

 今回は,それを少しでも理解しようと,選手の足元を集中して見ていた。それでもわからない。動体視力も元々は強くないので,仕方ないのかもしれない。

 フィギュアスケートの女子競技は,スポーツの中では最も女性らしさを表現していると思う。今回の競技でも,森の妖精であったり,プリンセスであったり,衣装や身のこなしも表情も,女性としての魅力を存分に表現しているスポーツである。これまでは,その表現力の方に目を奪われていたこともあり,回転などの細かい技まで目が行かなかったというのも事実である。

 男性である筆者からこういう話をすると,セクシャルハラスメントと言われかねないが,女性の目から見てもフィギュアスケート女子の演技は魅力的に見えるに違いない。衣装,身のこなし,表情という表現力が,魅力のベースにあることは間違いないだろう。しかし正直言って,男性の視点からは女性のセクシーさも評価に加わってくる。カメラ小僧の撮影アングルがよく問題になるが,おそらくほとんどの男性の視線は同じである。

 フィギュアスケート男子の演技は,元々はスピードと回転のキレが評価ポイントだったと思われるが,現在はアピール性,芸術性も評価の対象となっている。以前は黒づくめの衣装が中心だったが,今はフリルが付いていたり,色もパステルカラーだったりする。ショート演技やフリー演技ではカッチリした衣装で滑ったあと,エグジビションでコケティッシュな衣装で観客を楽しませる,そういう演出だったが,今は競技もエグジビションも華やかな衣装である。

 フィギュアスケート男子のイメージは,「王子様」「プリンス」だろう。海外の選手は背が高く,手足が長くハンサムで,ダンディな印象である。日本では高橋大輔選手がダンディさで人気がある。これに対して羽生結弦選手は,王子様タイプとしての人気だろう。中性的な雰囲気に,演技に対する凛とした厳しい表情が加わり,完璧な演技を披露する。少女漫画に登場するような理想的な男性像なのかもしれない。女性ファンにとっては理想的な存在なのではないだろうか。

 現実問題,羽生選手のような優しそうな男性や,高橋選手のようなダンディな男性は,世の中にはそれほどいないと思える。筆者も落第である。それなのに,世の中の男性は男性としての魅力の見せ方が間違っているような気がする。

 男性が魅力を発揮する方法として,一つは腕っぷしがあること,そしてもう一つが身体の大きさである。腕っぷしは,実際の腕力もその一つだが,もう一つは外見的な筋肉を見せることである。ボディビルダーが筋肉ムキムキであることを見せつけるのは,一つは同姓,つまり男性に対する対抗心であるが,もう一つはおそらく女性に対する自己顕示欲である。身体の大きさは,主に対抗系のスポーツをする選手に代表されるように,背の高さ,身体の大きさがポイントになる。

 男性は,女性がこのような筋肉ムキムキマンや身体ガッチリマンを無条件に受け入れる,と考える場合が多いようだ。これが男性のセックスアピールだと思っている節があるが,女性は男性を見て性的に興奮するわけではない。男性の視点と違って,女性の視点がセックスにあるわけではない。股間を見て興奮する女性はいない。自分を守ってくれるかもしれない,という安心感を感じるだけである。あきらめて受け入れられるかどうかを判断するだけである。

 しかし,競技として観たりする場合はいいのだろうが,パートナーとして常に一緒にいるのはどうだろうか。一般論として,肉体的に優位性を感じている男性は,自己顕示欲が強く,支配欲が強い。1対1になったときに理性的な行動がとれるのか,はなはだ怪しい。有名なスポーツマンの家庭が本当はどうなのか,表には出てこないだけなのではないのか。

 魅力の感じ方が,女性と男性では異なる。男性は女性を常にセックスの相手として評価する。衣装や身のこなしに「感じる」と,それはすぐに性的な刺激につながって興奮する。衣装から見える肌,胸元やヒップのシルエット,顔の表情,話し方など,すべてが男性を性的に刺激するのである。一方,女性は男性をセックスの対象とはすぐには考えない。魅力を感じたらうっとりして,自分の理想の付き合いのイメージに浸って満足感や安心感を覚えるが,性的な興奮はない。そして実際のセックスでも,男性の射精のようなピーキーな絶頂感はなく,夢が現実に戻されるのを覚えるのである。それでもパートナーとしてやっていけるかどうかは,男性の思いやり次第であり,これには強い理性が必要である。

 スポーツ界の選手年齢層がどんどん下がっている。先のフィギュアスケートや体操,水泳などでは,中学生でデビュー,高校生で技術のピーク,その後は演技で伸ばすといった風潮が強い。特に女子選手の場合,身体が変化する前の中学や高校時代に技術的に難易度の高い演技で活躍し,その後,身体が成熟すると技術点が取れなくなるという流れが強い。女性の演技というより女子の演技,という印象であり,低年齢層の演技は女性としての魅力を出すにはかなり無理がある。また正直言えば,まだ女性としての魅力が成熟していないのに,女性としての演技をさせられている,という痛々しさを感じることも多い。個人差はあるだろうが,シニア競技の中にジュニアが入るのは,むずかしさを感じる。

 スポーツをセックスアピールとしてとらえる筆者の視点は正しくないことは理解している。しかし,それぐらい男女の感じ方の違いがあるということを,改めて知ってほしいと思い,ここに記述することにした。女性は常に,周囲,特に男性には注意を怠らないことをお勧めしたい。男は常にオオカミである。