jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「多様性」と「共通性」のどちらが効率的かを考えると答えは自明--それぞれの棲み分けも必要ではないか

多様性が謳われている時代である。人権問題にしても,LGBTQにしても,これまで社会から抑圧され,自身も自分の中に押し込んで苦しんでいた人たちが,解放に向けて一気に動き始めた。

 かつて,女性解放や黒人解放が大々的に行われた。しかし,権利は勝ち取ったものの,残念なことにいずれも100%解放されたわけではない。それは,男女の性差,人種の物理的な差を,それぞれ尊重しつつも,統一されたわけではないからである。

 企業における女性管理職の割合を3割にすることを発表した岸田首相だが,数字目標を挙げる問題ではないような気がする。一方で,議会の女性議員の割合が50%を超える地域もいくつか生まれた。2023年の筆者の選挙区での県議会議員選挙,市議会議員選挙でも,女性候補,そして女性当選者の数が圧倒的に多かった。びっくりした。

 女性の政治参加,経営参加に意見するつもりはない。いずれも筆者が参加することはないエリアである。男性であろうと女性であろうと,意欲のある人が参加することで,物事は前向きに進んで行くことが期待できる。

 しかし一方で,女性の社会進出によって,日本では少子化が加速し,家庭が崩壊し,基礎教育が崩壊してきたと言わざるをえない。

 もともと,人口が少ない北欧諸国では,30%台という高い消費税で少ない老齢人口を支える福祉国家を実現している。その分,出産に対する補助も厚く,大学教育まで無償で提供されるという制度を実現しており,どの世代も幸せを享受できる構造を維持している。

 一方,日本はもともとはピラミッド構造で多くの若い働き手の稼ぎから薄く集めた資金を原資として少ない老齢人口を支える年金制度を作ってきたが,第二次世界大戦中,および戦後の高度成長期に大量に生まれた世代が,戦後医療の発展による長寿命化により,大量の老齢人口を残してしまった。そこに景気停滞,製造業の破綻による雇用喪失,給料停滞,そして多様性重視の社会風潮の台頭により,大企業の採用減なども相まって,年金の原資がなくなり,かつ若手人口の減少が続いている。

 現在,子ども家庭庁の設立,子供手当の創設などを打ち出した岸田内閣だが,これほど元気のなくなった日本で,未来に夢を持って結婚して子どもを設けるという若者がどれほどいるのだろうか。

 日本人「大減少」の未来がやってくる…話題の人口推計「2070年に8700万人」より現実は深刻である(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース 2023/4/29 のニュースで,国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が人口減少の予測を出した。2022年の総人口は1億2494万7000人だが,2070年には8699万6000人、2120年には4973万3000人にまで減る,というのである。

 100年後を予想するのは無理があるだろうし,50年後でも遠すぎる。1億人を下回る予想年が2050年ごろというのでも30年先である。

 総人口予測は,無意味ではないかと考える。というのも,老齢人口はあと30年は減らないからである。そして若者人口が減るとともに,その子どもの世代の人口が増えないので,あと30年は不健全な状態が続く。その後,ようやく老齢人口が減ることで年金の原資が間に合うようになり,若者も未来に再び希望を持てるようになるだろう。つまり,北欧型の少人口による福祉社会が実現できるようになるように思える。

 子ども手当を設けても,今の社会では単に食費に消えてしまうだけで,少子化の歯止めにはつながらない。もっと思い切った施策が必要である。

 たとえば,日本人口を2070年に予測されている8700万人することを目標に考える。そして,結婚して子育てをする家族には,子ども手当,教育費無償化に加えて年金積立を自分たちの将来の年金としてプールする仕組みを作る。逆に,結婚しない,そして子育てをしない人たちや家族は,現在の老齢世代の年金分の税金を追加課税する。

 1つの国の中でこれを矛盾なく実現するのはなかなか難しい。そこで,北海道や四国を若者国にする。一方,本州は老人国とし,老人も,働いて自分の生活が支えられるように,正社員採用をきちんと確立する。若者がいなければ,老人も活き活きと仕事ができるのではないかと思うのである(ただし筆者は,若い人に指導を受けながら仕事をしている今の状況を結構楽しんでおり,ジジイばかりの職場は気が滅入る)。

 筆者の持論だが,子どもを育てる過程で,母親や女性の「母性」は絶対に必要だと思っている。もちろん,父親が子育てに参加することは必要だと思うし,筆者自身も積極的に参加したつもりだが,母親の代わりにはなれないと思った。むしろ,家族を守るために,仕事に集中して少しでも早く家に帰り,皿洗いや風呂掃除などを手伝い,もちろんミルクを作ったりおむつを替えたりあやしたりもした。

 妻には子どもができた段階で専業主婦になってもらった。今からすると,仕事を辞めることは不満だったという。しかし,たとえば1年で職場復帰したとして,子どもの面倒はどうすれば良かったのだろうか。

 多くの共働き世帯では,子どもが小さいころからベビーシッターや保育園などに預けることが普通になっており,ここでも「待機児童」問題が出ているのだが,その解消のために急ごしらえで非認可の保育園まででき,十分な保育ができない状況で,放置による死亡や虐待などの問題も起きている。待遇も低いままである。どうも本末転倒な気がするし,物事の順序が逆な気がする。

 高齢者の介護体制も同じである。高齢者が急に増えたから,施設だけは増やしたが,介護をする人の待遇も低い。

 子どもの保育も,高齢者の介護も,そして障がい者の支援も,本来は対象者にとって喜びを与えられるやりがいのある仕事である。きつい仕事であっても,一生懸命することで生きがいを感じられるべきであり,十分な報酬を得られるべきだと思う。こんなところをケチっているから,世の中がおかしくなるのではないか。

 日本のモノづくりがどこかでおかしくなったのも,仕事のきつさに対する報酬が今ひとつだったからではないか。もっとも,所得水準の低かった東南アジア諸国の人々が,一生懸命にモノづくりに取り組んだことで,仕事が流れていったことも一因である。

 モノづくりは,共通性を高めることで短時間に多くのモノを作る量産によって規模を拡大してきた。手作りで顧客の注文に沿ってモノを作ると,量産はできなくなり,価格も高くなる。

 日本にモノづくりはもう戻ってこないように思う。したがって,水素エネルギーと食料生産を次のネタにすべきだと主張してきた。しかし,もう1つ重要なのは,人を育てる仕事である。保育,教育,そして障がい者支援や老人介護といった人を育てる仕事に,もっと重点を置くべきであり,当事者にカネを配るだけでは何の意味もないことを早く認識してほしい。そしてその教育に当たる人たちを,もっと増やす方法を考えるべきで,これをまた海外の人材に頼ろうとしているから,話がさらにおかしくなるのである。

 しかし,人を育てる仕事には苦労も多い。人は1人1人個性がある。その個性を活かしながら一定の水準の知識や常識を与えるには,多様性と共通性の両方を育てて行かなければならない。単純労働ではない,非常に高度な仕事である。たとえば,天気や空気の流れを読みながら操縦する航空機パイロットや,1人1人異なる病状に対応する医者と同じような待遇を与えなければならない。

 モノづくりのように共通化を進め,大量生産で安く成果を上げる仕事は,自動化や機械化が可能である。しかし,アイディアを出し,オリジナリティを出す創造的な仕事は,人間が考えるべき仕事である。基本的にすでに世の中にあるものから検索して羅列するだけのAIが,人間に取って代わることはない。同じ質問をすれば,同じ答えが返ってくる。

 多様性をすべて尊重すると,社会は崩壊する。生きものの世界では,「棲み分け」によって多様性を確保している。その境界線をめぐって,生死をかけた攻防が日々行われているが,必要以上に棲み家を広げずに,互いに共存する関係を作って一定の安定した世界を作り上げてきた。

 その自然の法則を破壊したのが,ヒトである。多様性だ多様性だと今さら言っているが,ヒトの中の多様性ばかり重視していては,他の生きものは犠牲になり,地球環境の破壊は進む。しかも多様性を維持するための「棲み分け」をヒトはすることができない。常に相手を支配しようと陣地を広げるために戦争をする。

 国際連合(国連)は,多様性を認めつつ,人類の平和という共通性を目指すという矛盾した目標を持った機関である。ルールという共通性を持たせようと思っても,多様性を主張すれば意見は対立する。

 1つの国の中でも,多様性を進めれば共通性であるルールを作ることができず,社会として成り立たなくなる。現在社会において,権威主義国家が国民の多様性を認めず,権威による共通ルールで縛ることで,ある意味で国は成長しやすいが,国内での矛盾は大きくなる。人の意志に基づく自己規制ではなく,官憲による圧力になる。

 効率性を求めれば,共通性を重視する方が都合がいい。すべての多様性を認めると,社会の仕組みが何重にも必要になり,効率が悪くなって社会が成り立たなくなる。やはり,お互いの立場を尊重しつつ,何らかの物理的な「棲み分け」も必要なのではないか。

 以前,立法府衆議院参議院に加えて女性院を作ってはどうか,という提案をしたことがある。女性の意見は,1つにまとめて提案してほしいと思うからである。1つの棲み分けである。同じ場で意見を戦わせても,共通の結論は出ないと思うからである。

 筆者自身,高齢ということも併せて,相変わらず自分はステレオタイプだなと思う。しかし,健全な家族をベースとしたサステナブルな社会を維持するには,一定の共通性がベースになるべきであり,物理的な棲み分けをしなければ維持できないと思うのである。