jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「多様性」を求めてはいけない場所もあるのでは--プライベートかパブリックか,自立しているかしていないかでルールも必要

多様性という言葉が一人歩きをしているように思える。すべての場が多様性に対応すべきなのだろうか。

   統一を含むルールによってもたらされるのは、秩序と美である。街で使える色を制限すれば、ニューヨークのような美しい街並みになるが、制限がなければ香港や日本のような雑然とした街になる。ルールを設定するのは、美と安定のためである。

   統一がなければ、それは混沌(カオス)になる。ルツボと言ってもいい。その混合の中から新しい価値が生まれることもあるが、逆に過激な反応を起こすこともある。ルールがなければ、そのバランスは常に不安定である。

 社会全体は,多様性を受け入れる流れに乗っている。個人同士は価値観を認める方向にある。多様性なので,価値観を認めないことも選択肢の中に入ると筆者は考えている。「多様性を認めないという価値観」も多様性の1つだと思うのである。

 つまり,プライベートの範囲では,多様性を認めることも認めないことも両立すると考えている。

 プライベートかどうかについて,筆者の考えをまとめてみたい。個人同士はプライベートであるし,家族同士もプライベートであると考える。つまり,隣人同士はお互いの価値観に立ち入るべきではないと考える。その家族を構成する結婚という価値観においては,多様性は認められる。現時点でも家族同士の価値観の違いは大きく,付き合いの度合いもさまざまである。必ずしも付き合わなければならないということはないからである。したがって,結婚の多様性についても本人同士であれば認めて問題はないと思う。ただ,本人とその家族との間で多様性が受け入れられるかどうかは,個人の問題である。決別,理解,妥協などの多様性が生まれてしまうだろう。

 しかし,自治体などの組織から見ると,組織のルールが優先される。つまりパブリックな場での多様性は,組織の考え方によるだろう。プライベートに極めて近い組織である自治体は,それぞれのプライベートに立ち入らない範囲で多様性を認めることは比較的容易だと思われる。イベントがあるといっても,毎日付き合いがあるわけではない。

 これが,学校や企業のように同じ価値観の下に集まる場所では,組織のルールが優先されるとすると,そこはプライベートの集まりではなくなるので,多様性をすべて認めるわけには行かなくなるのではないかと考える。

 まず,いちばん議論が沸騰している「学校」について,筆者の考えをまとめることにする。

 同じ学校でも,大学は自分の価値観が中心になる組織である。自分が身につけたい知識やスキル,自分の将来のキャリアパスに必要な学問を自ら選ぶ場である。したがって,多様性は個人のレベルまで許容される。自分に不必要な学びは取らず,必要な学びを選ぶ自由が与えられる。「授業」ではなく「受講」と言われるゆえんである。自ら選ぶ必要がある。「学生」とは,自ら学ぶ人のことである。

 一方,高校までは「授業」である。将来の社会人として必要と考えられる最低限の知識を「教育の平等」の下に提供する場である。したがって,学校のルールが優先されると考える。そこであらゆる多様性を認めてしまうと,それはプライベートの集まりとなってしまい,「教育を提供する」機能に不具合を生じる可能性がある。先生と生徒という関係ができなくなってしまう。先生は教育を提供し,生徒は教育を受ける。ここには規律,校則も含めてルールは必要だと思われる。もちろん一方的に決めるだけでなく,意見を交換する必要はあるだろう。

 企業も,社会に対して付加価値を提供するという目標を持っている。すべての社員が,個性を生かしながら企業の目標に向けて仕事をすることが,最も力が発揮される。しかし,ただ同じことばかりしているだけでは進歩はない。新しいことを考え,議論し,新しい目標として,あるいは2本目,3本目の柱として事業を進めることで,企業は前に進むのである。企業は,複数の機能が集まって構成される。生産部門,販売部門,管理部門などがあり,そこには個々の社員の個性を活かす場も提供される必要はあるだろう。したがって,企業には多様性を受け入れる場がある。

 このように,ソフトウエア的には多様性の受け入れは個人の気持ちの問題なのだが,設備を作るなどハードウエア的には多様性の限界があるように思われる。また,ハードウエアを作ればそれで終わり,といった投げやりな多様性容認の姿勢も多く見られ,根本的な解決にはなっていない。

 多様性の中で性の多様性がいちばん問題になっている。筆者が以前まとめた意見は,性の多様性,障害者に対する筆者の私見 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/6/1 である。今回,学校での多様性について1つの私見をまとめた形になる。つまり,「自立しているか,自立していないか」によって,ルールや規則を適用するかどうかを決めていいのではないか,という考えである。自分の進む道が自覚できれば,その道を自ら進めばいいし,そこに至るまではルールの下で自分の道を探すために多様性を主張しない約束とする,という視点はどうだろうか。その場合でも,学校側はハードウエアとしての第3トイレを準備したり,オンラインでの授業参加を認めるなどの対応は必要だろう。

 多様性という意味のテレワークも,なかなか会社側の理解を求めるのは難しい。出社すれば着席していることを常にチェックできるが,自宅作業だと仕事をしているのかどうか,疑心暗鬼になっていることが容易に予想される。筆者は,PC作業が中心なので,PC作業の様子を中継することでアピールしているが,それでも100%着席しているわけではないので,疑われていることは間違いないが,多様性の1つとして容認はされているようである。ただ,コールセンターやモノづくりなど,フルタイムで同じ作業を繰り返している職場では,テレワークを容認することは難しい。