jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

停止線の手前で停まる?--むしろ停止線を越えて停まる人の方が多いように感じるが

なぜ? 停止線の手前で「止まる人」存在? あえてスペースを空ける理由に賛否!? 実は良い行為だった?(くるまのニュース) - Yahoo!ニュース (2023/11/12)というニュースを読んだ。交差点で左折してくる大型車から離れたいとか,後ろから追突された際に前に被害を広げないとか,いいことのように書かれていた。

 逆に筆者は,停止線を越えて停まる人の方が多いように日頃感じてきた。かけっこでも,スタートラインを越えて構えたら注意される。線が引いてあるなら,その手前に立ったり停まったりするのが当たり前だと思っているのだが,世の中にはそうは思わない人が結構多いらしいことに驚いている。

 筆者は基本的に,停止線の手前側の辺にクルマの頭が来るように停まるようにしている。多少,頭が線上にかかることはあるが,少なくとも越えることはしない。そこに線があるからである。この線を越えたら,何のための線なのかわからなくなってしまう。

 逆に,右折レーンに入った場合は,できるだけ前に詰めて停める。右折レーンはクルマが3~4台入ればいっぱいになり,その後ろに次のクルマが停まれば車線にはみ出して停まることになり,後続のクルマが避けて通らなければならなくなる。前に詰めれば,最後のクルマの最後尾も多少は右折レーン側に寄せられ,通行の邪魔を防ぐことができると考えるからである。車両が動き出して前のクルマに当たらないよう,サイドブレーキも併用している。走行レーンで信号待ちする場合は,規定の1.5mは空けて停めるのはもちろんである。

 クルマ以外に,駅のホームに引かれた線でも,線より前に立って電車を待つ人が結構多い。たとえば3列で待つ場合,1人が線より前に立っていたらおかしいと思うのだが,どうもまったく平気な様子なのである。当然のごとく,ドアが開いたら真っ先に飛び込んで行く。そのために,人より1歩前に立っているということなのだろうか。浅ましさすら感じる。

 クルマでも歩行者でも,前の動きに合わせてスピードを加減することで渋滞を防ぐことができると思うのだが,周囲をまったく意に介さない運転や歩行に苛つくことが多くなった。

 クルマの場合は,多くはハイブリッド車である。できるだけバッテリーで動かそうとするため,前方が赤信号になると急に速度を落としてノロノロ運転する。発進のときも同じである。ノロノロと走り出すのはハイブリッド車である。

 歩行者の場合は,スマホ歩き+イヤホンである。視覚も聴覚もすべて自分の世界に入り込んでしまっており,周りを気にすることなど一切ない。

 かつて,ウォークマンとヘッドホンで音楽を聴きながら歩いていたのは若者だったが,今や年齢に関係なく,スマホ画面に集中している日本人。電鉄会社が駅のアナウンスでスマホ歩きをやめるように呼びかけても,イヤホンをして自分の世界に入っている耳にはまったく届いていないと思われる。

 街では,交通警察がOBを使って駐車違反の摘発を続けている。東京都千代田区は区内の道路が禁煙になっているため,こちらも警備員をやとって巡回しているのを見かける。しかし,スマホ歩きをしている人を取り締まる方法はないし,実際取り締まりを見かけたこともない。

 礼儀正しく,ルールを守る国だったはずの日本が,2000年以降の経済不況で賤民に戻ってしまったように見える。他人のことを思いやる気持ちも,譲り合う気持ちもなくなってしまったのだろうか。親からのしつけ,学校での教育,そういった社会性を学ぶ機会がどんどん失われ,バーチャルなエンタテインメントの世界にしか自分を置けなくなった日本人が多くなっているのではないだろうか。

 国の方向性を決める政治家の性犯罪や脱税犯罪まで連日起こってしまっている。警察や教員,自衛官,弁護士,裁判官,そして税務署職員まで性犯罪を含むさまざまな犯罪を起こしている。定職が得られない若者が,強盗や殺人,そして詐欺をアルバイト感覚で犯してしまい,その手口の残忍さもバーチャル世界であるアニメやゲームをそのまま現実に起こしているような錯覚さえ覚えるほどである。

 これで世界の紛争に巻き込まれる事態になったら,何が起きるかわかったものではない。暴動,打ちこわしなど,かつて日本でも行われた事態が,再び繰り返されるのではないか。助け合いなどといった悠長なことをできる気持ちの余裕が,今の日本人にはほぼなくなりつつあるのを感じる。次に災害や他国からの攻略があった場合,日本を守るという一致団結はできないのではないかとも思うのである。

 日本人の心の拠り所がなくなりつつある。心の余裕がなくなりつつある。何かメッセージを発信できればと考えるのだが,あまりに微力である自分が情けなくなっている。