jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

結婚で時間を止めないためには、食事を「買う」ことも必要--しかし料理を“実験”として楽しめた方が人生は豊かになる

今日も電車で若いカップルを見掛けた。この2人は将来結婚するのだろうか、と考えた。結婚して時間が止まるのは、主として女性側である。その理由を考えてみる。

    結婚してまず直面するのは、女性側が仕事を続けるのか、辞めて家庭に入るのかというニ択である。女性側が仕事を辞めて家庭に入る選択をすれば、男性側はこれまでの生活を変える必要がなく、最も楽である。

    筆者も、子供を育てる環境としては男性がしっかり稼ぎ、女性が家庭を築くというスタイルは望ましいと思ってきた。人間関係が安定するからである。

    一方で、結婚、あるいは出産を機に女性が仕事を続けられなくなることに対して、問題がないわけではないと思っている。

    ただ、女性が一人立ちできる収入と社会的地位を得るのは、現時点でもまだまだ十分ではない。男性と同じ資格で同じ収入を得られるのは、医者、法曹界、大学教員ぐらいに限られる。一般サラリーマンで会社の中心になって行く人材への抜擢もほとんどない。

    男性の収入も、以前ほど十分ではない。大手企業で終身雇用というパターンが無くなり、就職しても十分な給与が得られず、身分の保証もない。起業して新規事業をするとしても、もはや隙間ネタしかなく、結果としてYoutube などに芸人として登場するのが関の山。危険を冒して金融投資をするのならマシな方で、詐欺グループに関係するなどの道も身近になった。

    結局、結婚しても共稼ぎしなければ家計は苦しく、両親が不在の環境での子育ては、また他人に依存しなければならない。人間関係の形成に重大な欠陥があると思うのである。

    結婚しても一緒に過ごす時間は最大でも1日の1/3の8時間であり、しかもそのほとんどは寝ている。食事をし、テレビや映画、ゲーム、会話などを起きている間にしようとすれば、2時間ぐらいしかない。

    この2時間を有効に使うのに、最も妨げになってくるのが、食事を作る、という時間である。専業主婦であれば、家事の一環として調理の時間を別途掛けることができる。しかし、共稼ぎ夫婦で女性に料理を課すのは負担が大きいし、不公平感もある。

    ならば、いっそ「食事を作らない」という選択肢があってもいいかな、と思ったのである。

    アメリカに留学した時に驚いたのが、下宿先の奥さんがほとんど料理を作らないことである。夫と一緒に食事に出ることもあるが、大抵は「ディナープレート」と呼ばれる冷凍のおかずを電子レンジでチンして食べていた。台所には立派な銅の鍋やフライパンが置いてあるのだが、それを使うことはなかった。

    当時、食事を作らないという文化には抵抗があった。外食ならともかく、家の食事を冷凍おかずのチンで済ますなど、余りにも贅沢に思えたのである。第一、愛情が感じられなかった。空しさまで感じていた。

    しかし、専業主婦が家庭を守るというスタイルは、もはや日本でも維持できなくなっている。そのなかで女性に料理を課すのはおかしくさえ思うようになった。

    日本でも、このディナープレートは複数の業者が提供している。冷凍タイプも冷蔵タイプもある。

    それなら、コンビニ弁当でもいいかとも言えるし、コンビニやスーパーのお惣菜も選択肢になるはずである。特に、コンビニのお惣菜のクオリティはここのところ極端に上がっている。独身時代にコンビニ惣菜のお世話になった人が、気に入ればそのまま利用し続けてもいいだろう。

     ディナープレートのいいところは、種類の多さに加えて、カロリーや栄養バランスが考えられていることである。高齢者にはうれしいが、若い人でも有用である。

    問題があるとすると、チンでできたディナープレートを挟んで、夫婦の幸せな時間を共有できるかどうかである。一緒に食べる、ということが一番大事なのだが、美味しさを共有できるかどうかである。

 また,共働き家族の場合,子供もディナープレートを食べることになるわけだが,この場合,子供が母親の手作りの食事,いわゆる「おふくろの味」を知らずに育つということになる。これは子育てとしてどうなのだろうか,と考えてしまう。

 しかし実際は,外食中心で育つ家庭も多い。惣菜店がいくら「おふくろの味」と銘打って伝統食を提供したとしても,それは味を似せただけで,親の愛情までは入れることはできない。

 共稼ぎでもDINKS(ダブルインカム・ノーキッズ=子供なしで2人で生きる=すでに死語かもしれないが)の間は外食でもディナープレートでもよく,また子供が旅立った老齢夫婦なら,ディナープレートもいい選択だと思う。

 一方で,料理は複数のモノの流れを同時に考え,手を動かして処理するという意味で,頭の体操であり,ボケ防止に効果があるともされている。1日中ボーっとテレビを見て,食事は電子レンジでチン,としていると,やはりボケるかなという気もする。

 頭を働かせ,手を動かす。これはまさに“実験”である。筆者は,近頃の学校教育で理科実験の時間が極端に減っていることに警鐘を鳴らしているが,同様に自然に触れる体験や料理を考えることも人生を豊かにすると考えている。

 自分で味を調整する,素材を替えて比べてみる,そんなレシピどおりではない“実験”の中から料理の面白さが分かってくるのだが,子供の頃の体験がなければ,コンビニ惣菜を買ってレンジでチンして大満足,という人生になってしまう。

 いろいろ考えると筆者の場合は,子供の頃は母親の手作りごはん,ボーイスカウトで料理の面白さを知り,大学で一人暮らしをしても自炊・料理中心,独身時代はもちろん自炊・料理,そして結婚してからは妻の手料理と週1の男の手料理で,人生を過ごしてきた。自分で作れる料理を持っていることが,ものすごく自信につながっている。

 こんな話を妻にしてみたところ,自分の身体のことを考えてこれからも料理は自分で作る,と言っていた。ただ,一度に大量に作って手抜きするようである。料理は嫌いだし苦手だと言いながら,栄養学的な勉強もしている。筆者よりはよほど理論派である。

 筆者の料理も,カレーライスやポトフ,そして中華系の炒め物など,大勢で楽しめるレシピである。大量に作って何日かにわたって食べるのかな,と思いつつ,サイドディッシュとしてのディナープレートやコンビニ惣菜の活用を考えて行こうかと考えている。

 一方で,規格外の農産品の活用や,子供食堂などでの適正な供給といったボランティア的な活動にも,視点を向けなければいけない時期かもしれないと思い始めているところである。