jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

今,バーチャルを作るタイミングではない--リアルな生き方を目指してほしい

筆者の生きた時代は,テレビというバーチャルな発明が世の中をリードしていた。茶の間で世界中を旅できた。空間を飛び越えるというバーチャルな体験は,その後,実際に旅行でその場に行くことでリアルな体験につながり,感動が一層盛り上がるという夢を与えてくれた。バーチャルとリアルが結びつくことで,感動が倍増した。

 現在の若者は,生まれたときからパソコンとスマホ,そしてインターネットというバーチャルな発明の中で育っている。ネットを通じてYouTubeの動画でリアルな歌手や俳優を応援し,コンサート会場に足を運んでリアルを体験する。そういう意味では,バーチャルを起点にリアルに結びつくという流れはできている。

 しかし,テレビと旅行の間には,大きな隔たりがあった。高度成長を遂げているとはいえ,一般市民の生活はそれほど豊かではなく,バーチャルで夢を膨らませつつ,それがリアルの海外旅行につながるのは,社会人になってからだった。

 一方,筆者の次の世代は,豊かなバブルの時代となり,いきなりリアルな行動に出ることができた。海外旅行しかり,恋愛結婚しかり,マイホームしかりである。お金さえ出せば,リアルはすぐに手に入る。夢を膨らませることなく,いきなりリアルを体験できる。あまりにも直接すぎる体験の時期である。

 これに対して現在は,バーチャルがほぼすべてを支配しているように思える。新聞も本も読むことなく,テレビも見ることなく,スマホとパソコンで何でもできるようになった。人とのつながりもバーチャルになり,相手のリアルの存在そのものがウソだったりして犯罪の温床になるケースも出てくる。リアルの場が,いわゆる繁華街になり,ホスト推しで散財したり,トーヨコで性犯罪に巻き込まれたりする。

 社会生活,集団生活を体験するリアルな場としての学校も,おかしくなりつつある。何しろ筆者の時代は,行くところといえば学校しかなかったし,学校で教わるものはすべてが新しく,新鮮で,勉強は筆者の好奇心を掻き立てた。中でも,理科の実験は最も面白かったし,音楽の合唱や合奏も好きだった。苦手だったのは,体育,美術,書道だったが,1人でコツコツ練習のできる鉄棒は好きだった。家にないものが学校にはリアルにある,というのは実に魅力的だったのである。

 ところが,現在の学校ではトップダウンで授業を進めることがなくなった。クラス全員の顔色を見ながら,1人も遅れないようにすることが第一に大事なこととなり,想像性を養うと称したアクティブ・ラーニングが取り入れられることで,議論し,合議することが重要になってきている。実験の授業時間は減り,知識のシャワーを浴びることもなくなり,しかも学校行事としての体育祭や文化祭すら盛り上がりに欠けるようになっている。学校という社会をリアルに体験することが感動につながらなくなっている。

 かつて,テレビのマンガが教育上良くないとして,1日の視聴時間を制限することが求められた。1日の視聴時間が2時間とかに制限され,その後の時間は学校の宿題に集中するという生活だった。

 今,パソコンやスマホは常に身の回りにあり,歩きながらでも,電車の中でも,バーチャルな情報を入手できるようになった。家の自分の部屋に入っても,リアルな勉強だけでなく,バーチャルなインターネット情報に触れることができる。生活の時間の中でリアルとバーチャルの境目が極めてあいまいになっている。

 そのバーチャルな世界の中で展開されている情報は,ほぼすべてがバーチャルである。特にアニメやゲーム,エンタメのコンテンツは空想の世界が題材になっており,リアルな体験に結びつかなくなっている。かつてのSFマンガは,その後の技術の進展によってロボットやロケットなどの登場というリアルな体験につながって行ったが,今のアニメはほぼ空想の世界だけの展開である。

 さらにアニメやゲームのバーチャルなストーリーを作ることが,現在最も付加価値の高い仕事のように思われるようになった。視聴者の数がインターネットを通じて世界中が対象になることで,広告宣伝のお金が,これまでのテレビや新聞,雑誌などからインターネットにすっかり移ってしまった。あらゆるバーチャルなコンテンツを作ることが,最も稼げる仕事になってしまったのである。

 クリエイターエコノミーは幻--衣食住なくしては創造などありえない - jeyseni's diary (hatenablog.com)(2023/12/18)で書いたように,バーチャルなコンテンツを作るだけでは人間は生きて行けない。誰かが衣食住を生産し,パソコンやスマホ,インターネットを動かすための電気を生産し,モノの流れを動かすという「リアル」が必要なのである。しかし,世の中で発言力を持つ人が,ほぼバーチャルな創造者になってしまっている。

 リアルなモノづくりが経済の中心だった時代に,バーチャルなエンタメや芸術などの文化は人間の潤滑油として重要だった。しかしこれが逆転してしまい,バーチャルなストーリーばかり出てくると,それは社会の創造には役に立たなくなってしまう。

 昨今の音楽も小説も映画も,ほぼすべてがアニメやエンタメにすり寄っているように思える。取り上げる素材が犯罪であったり,武士の時代や忍者の時代だったり,侵略者の話だったりする。かつてテレビを中心としたメディアのバーチャルな世界が,技術によってリアルを実現するという夢を描いていたのに対し,どうみてもそのバーチャルがリアルになっては困ると思わざるを得ない世界が描かれていると感じるのである。

 すでに,現在のバーチャルな世界は潤滑油ではなく,まるで現代人にとっての栄養そのものになっているような気がする。これにより,人間関係の破壊,犯罪の凶悪化,そして再び起こった戦争など,人間を狂わせているように思うのである。

 小説家志望者が増え,YouTuberを目指す小学生が登場し,スポーツやエンタメが持て囃されている。実業の中に潤滑油としてこれらの虚業が存在するのは必要だったが,実業がなくなりつつある日本で,虚業ばかりが幅を効かせていては,経済は発展しないし,外貨は稼げない。戦争が起きても武器もエネルギーもなく,戦える人材もいない。これほど一触即発の状況になっている世界の中で,唯一のんびりしているのが日本である。北朝鮮からのミサイル,中国からのミサイルの発射を受けても,「国際法違反だから厳重に抗議する」と言っているだけである。防衛費を2倍にしたからと言って,戦える人材は減る一方である。おそらく日本を守ろうと立ち上がる人は,ほとんどいないだろう。

 日本の経済を支え,日本人の生活を守るのは,モノづくり・エネルギー作りの二次産業であり,食糧づくりの一次産業である。三次産業のサービス産業は,バーチャルであり潤滑油でしかなく,ここばかり膨らんでは人として生きていけなくなる。本当に真剣に,食糧自給,エネルギー自給というリアルを考えなければならない段階なのに,何の施策もなく,万博だ,カジノだ,オリンピックだ,藤井だ,大谷だ,山本だ,そして投資だ,NISAだ,と浮かれている日本に,明日がないと感じているのは筆者だけだろうか。

 本気でハダカ芸を輸出する国に成り下がってしまうのだろうか。裏金を組織的に作る政治家や聖職の道を外れた医者・教員・警察・自衛隊員・公務員・弁護士・裁判官ばかりの国になってしまうのだろうか。詐欺や万引きを世界に輸出する国になってしまうのだろうか。

 もし,次のアメリカ大統領が前大統領再選という事態になれば,これは第三次世界大戦にも成りかねない。それが核戦争という形で数十分で終わりを告げるのかもしれないが,日本はほぼ何も手出しすることなく,ほぼ同時に消滅してしまうのかもしれない。火種となっているウクライナ紛争やパレスチナ・ガザ侵略をバーチャルとしてしか見ることができない日本にとって,リアルが訪れることがない,日本にミサイルが落ちることはない,戦争に動員されることはない,と考えていること自体が,まさにバーチャルである。

 日本が目を覚ます日は来るのだろうか。悲惨な結末を見る前に,この世からおさらばさせていただきたいものだと思ってしまうこのごろである。