jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「つなぐ」がバーチャルになってはいけない--ネットワークのこと

阪神淡路大震災いらい,「絆(きずな)」や「つなぐ」がメッセージとして使われている。この自然災害の中で,お互いに助け合ったり,その記憶を風化させないように伝えていく,という意味がある。日本人ならではの考え方だと思う。

 実際の体験者が語り部となって話を伝えていく活動も続けられているが,何年も経過すると体験者そのものが他界してしまう。若い世代や子供の世代がつないでくれればいいが,間接的な表現にならざるをえない。

 かといって,映像やCGで表現することによってリアリティやディテールは失われ,逆に細部にこだわりすぎても嘘くさくなってしまう。絵本や紙芝居といった静的な表現の方が,受け取る側の想像力を掻き立ててリアリティに近づく可能性もある。江戸時代に描かれた地震や大火,富士山の噴火などの絵を見ると,意外にもそのリアリティが伝わってくる。

 さて,表題は昨今のインターネットというネットワークのつながりについてである。かつて,つなぐ発明をしたのはアメリカのグラハム・ベルの電話だし(実際はベルは最初に特許を取得したが,発明そのものはイタリアのアントニオ・メウッチだという),それに先立って電信を発明したのもイタリアのグリエルモ・マルコーニだという。

 言葉を伝え,そして声を伝えるという画期的な発明である。特に電話は知った人の声で届くことで,信頼性の高い情報として認識された。これがさらにラジオとなり,次にテレビとして映像が伝えられた。テレビについても,発明者として複数の名前が上がっている。日本では高柳健次郎の発明とされており,最初に送った画像がカタカナの「イ」であることで有名である。その後も,いかに真実を伝えるかがテレビの使命となり,ハイビジョンから4K8Kへと画素数が増え,より細かな映像を送れるようになった。モノクロテレビでは,ニュースや天気予報は見る気になるが,風景などはほとんどわからない。しかしカラーテレビでたとえば日の丸の赤が赤に見えたときはすごいなと思った。

 つまり,情報を「つなぐ」ことは正確な情報を伝えることだと筆者は認識しているのである。家に居ながらにして自分がその場に行ったような気持ちになれることが,筆者にとっては重要である。書籍のデジタル化も,図書館に行ったり,書店で本を購入しなくても,パソコンの画面上で情報を読むことができる,ということに価値を置いている。

 しかし2023年に登場した生成AIによって,つながった情報の正確さが担保できなくなった。すでにその前から,コラージュでウソ画像を作ったりしていたが,生成AIでは音声,画像,映像,アニメまでことごとくウソ情報を作れる機能を持っている。

 膨大な情報から,より関連性の高い情報にたどりつく方法として,検索エンジンは有用だった。候補として検索された結果から,正しい情報を見抜く力は,ユーザー側の責任に託された。つまりそこには「自分」というリアルな存在があった。

 ところが生成AIでは,情報の選択と絞り込みまでAIがおこなってしまい,“正しい情報”として“答え”を提示する。そこにユーザーの選択の余地がない。しかも,答えの情報は,ネットワーク上に散らばった情報を適当につなぎ合わせただけになる。文字情報なら,その内容を読み取ってユーザーが修正できるが,音声や画像,映像,アニメなどは「それが正しい」として提示される。著作権侵害をしているかどうかも分からない。

 さらに言えば,情報そのものが意図的に偏ったものになるような操作もできる。たとえば西側に有利な情報だったり,東側に有利な情報だったりと,情報に公平性がなくなる可能性も出ている。

 おそらく,多くの人がアニメやゲームなど,バーチャルな情報にあまりにも慣れ親しんでしまったことで,それが意図的に作られた情報かどうかの判断ができなくなってきているのだと考える。アニメでも,たとえばスポーツを題材にしたり,家族を題材にしたりすると,ユーザー側のリアルにつながるため,共感が得られたりする。しかしこれが,歴史モノや戦争モノ,対戦モノ,SFモノなどになってくると,ユーザー側のリアルとつながらなくなってしまう。そこに夢があるものはまだいいが,殺人や相手を爆破するといった日常にはあり得ない設定を受け入れてしまうと,それがバーチャルなのかリアルなのかわからなくなってしまう。そしてリアルな世界で犯罪に手を染めたりしないとも限らない。

 ネットワークは,リアルを伝えるものに限定したいと思う。筆者がゲームやYoutube,そして昨今はやりのVideo on Demandなどのアングラ映画やアングラアニメをまったくスルーしている理由である。しかし,若い人はYoutubeを見,tiktokを見,Instagramを見て,情報過多になっているように思えるし,リアルとバーチャルの境目がわからなくなっているのではないかと思ったりする。

 ウクライナガザ地区の映像がリアルを伝えているはずなのだが,受け取る側の日本人はリアルとして見ていない。亡くなった人の数が◯万人を越えた,などという情報も,まったく他人事である。人の命は1か0であり,1人でも0になることが許されないことなのだが,なぜかマスコミはこの数字を「正確に伝える」ことが使命だと思い込んでいる節があるのがやりきれない。

 正確な情報を受け取って,それをきちんと理解するというユーザー側の感性も必要である。能登半島地震で電気は水が使えなくなった丸2ヶ月を,次に首都圏や南海地域の人たちは受け入れられるだろうか。北朝鮮から被弾しないとも限らないミサイルを受け止められるだろうか。

 ネットワークを通じた情報をいかにリアルに受け止められるか,これはユーザー側が常に意識して訓練しなければ,単に情報が流れて行っておしまい,ということになる。