政府とテレビによる“新型コロナウイルス大本営発表”の違和感 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2020/4/17のブログである。言葉の使い方がおかしい,と感じて書いたブログで,ニュースや政府発表が「大本営発表」みたいに感じると書いている。
昨晩2022/3/16 23時36分,宮城県沖30kmで発生したマグニチュード7.4の地震は,東北地方で震度6強,首都圏でも震度4と大きな揺れだった。30cmだったが津波も観測された。山形新幹線で17両編成のうち16両が脱線したり,東北自動車道で路面が陥没するなど,大きな被害も出た。現時点で死者2人,負傷88人とニュースで報じられている。交通の被害はかなり大きいが,人的被害は比較的抑えられたようである。早期に回復することを祈りたい。
さて,連日の報道を聞いていると,ウクライナ侵攻,新型コロナウイルス,そして今回の大きな地震の話題に大きく時間が使われている。東日本大震災では津波による大きな被害が出たが,テレビ放送では状況を伝えることが中心となり,「避難の呼びかけが足りなかった」といった反省があったのだろう。その後の大雨による土砂崩れや,地震,火山の爆発などの報道の際,とにかく「避難してください」「命を守る行動を取ってください」と連呼する報道がされるようになった。
大地震は,広範囲に被害が及ぶ。しかし,最大で2分持ちこたえられれば地震の直接の被害は回避でき,その後は落ち着いて避難する行動を取れば被害の拡大は防げる。もちろん大きな余震が続くことで被害は大きくなるが,それも一時的である。地震による火災を出さないように気をつけて避難できれば,とりあえず命を守ることはできそうである。しかし火事が起きたり,地震による津波が起きたりすると,被害の規模が積算されて大きくなる。この「避難指示」をどう伝えるかは,難しいテーマではある。
ただ,同じ文言を連呼されると,受け取り側の感情がどんどん麻痺してくるような印象がある。具体的に危険度を伝える方法を開発する必要があると感じる。
また,事後報道で被害の状況を伝える映像が映されるのだが,現在進行形の映像は次の行動に役立つのに対し,すでに起こった被害映像を繰り返し報じられてもあまり意味がないように感じる。交通機関での被害報道は多くの人に関連するが,塀が倒れた,棚の荷物が散乱した,といった情報はピンポイントの被害の大きさを伝えることはできても,多くの人にとっては無関係な情報である。これを繰り返し報道されても,問題解決にはつながらない。
多くの被害案件は,もともと対策が不十分だったと思われるものが多い。不安定な古い門構え,古い袖看板,石灯籠や墓石も特に耐震対応されているわけではない。逆に,耐震設計された住宅は,家の中の荷物は散乱しても倒壊はしない。
ただ,津波や土砂崩れ,河川堤防の決壊,山火事,台風・竜巻などは,個々の建物の防災設計の限界を越えている。人為的に盛土や切土した場合を除き,どんな山でも崩れないという保証はない。地球温暖化によって雨量の増加,台風の巨大化,これまではあまりなかった大型竜巻の発生など,天災も激化している。一般住宅はもとより,鉄筋コンクリート造りのビルでも大きな被害を受ける。これはもう人智の範囲を越えているだろう。
それだけに,より具体的な報道が求められる。津波であれば,兆候がいまどこまで接近しているのかを検知する技術が必要である。大型河川の堤防は,インフラとしての老朽化を前提に決壊することを前提に増水予測をなるべく早く出して避難勧告する技術が必要である。
新型コロナウイルス報道では,相変わらず1日の感染確認者と前週との比較,重症者数,死者数が発表される。前週と比較して「増えた,減った」というだけにしか聞こえない。分析がまるでない。国会でも議論になった,病床逼迫率についても言及しない。。重症者数の増減と死者数の関係についても,結局なんの分析もない。大本営発表と同じように聞こえる。
ウクライナ侵攻において,ロシア国内での国営放送による情報操作が「プロパガンダ」だと国際的な非難を集めている。しかし,テレビの災害報道(新型コロナ,大地震,津波など)が“プロパガンダ”になっていないか,という懸念を急に抱くようになった。
新型コロナウイルスのオミクロン株による第6波に対応した重点措置が来週2022/3/21に全面的に解除されることになったが,その理由に「感染の顕著な減少傾向」という言葉が見え隠れする。増加するときは大騒ぎし,減少し始めるとまた大騒ぎする。報道による情報操作が,国民も政府も影響を受けているように思える。
「逃げてください」と連呼すれば報道の責任を果たしたような気がして自己満足しているのではないか。ウクライナカラーを持ち出せばウクライナ支援をしているという風に自己満足しているのではないか。結局,自分たちの身に直接災害が振り掛かってこなければ,人は真剣にならないのではないか。
たしかに筆者のように何もしない,何も行動しないよりはマシかもしれない。寄り添うことも大事かもしれない。しかし,残念ながら実質的なサポートにはなっていない。筆者はペンの力を信じるだけである。