AIによる自動文章生成プログラム「ChatGPT」については,これまでも数回コメントしてきた。筆者はあえてChatGPTは使わない,と宣言しているし,実際に登録もしていない。
すでに多くの人がChatGPTの使用に対して登録をしている。機能の確認と称して登録するAI技術者やメディア関係者も多い。「評価してみたら○○という結果だった」といったコメントもアップされている。
しかしそのコメントが,アップした人のコメントなのかどうか,すでに怪しいと疑われても仕方がない。
プロ向けの画像処理ソフト「Adobe Photoshop」でAIによる切り抜きや切り取り,背景画像の引き伸ばしなどの機能が加わったことを紹介したが,それをどう使うかはユーザーの考え方次第である。素人がプロ並みの仕事をすることもできるが,悪用することもできる。
スマホという便利な道具ができたが,これもユーザーの使い方次第である。かつてのガラケー時代でもカメラ機能はあったが,相手のことを考えたのか,レンズに蓋をすることができた。一方,スマホでは,カメラは完全にむき出しである。画面を長時間見ながら映画を楽しんだり,Webブラウジングしたりできるが,その間,カメラは向かいの人に向きっぱなしである。このとき,写真や動画を撮影していないという保証はない。盗撮用のアプリも無償で配布されている。これを使うかどうかは,ユーザー次第である。
画像処理ソフトによるフェイク画像の作成も,スマホ・カメラによる盗撮も,それを使うユーザーの意志であり,理性のある人はその機能を悪用することはない。しかし,ChatGPTによって作成された文章は,おそらくユーザーの期待以上のものが提供される。その時点で,ユーザーの意志が働かなくなる。制御ができなくなるのである。
文章の怖さは,立場によってまったく逆の解釈が可能だということである。誰が作った文章でも,それに対する賛成意見と反対意見は必ず存在する。ChatGPTが生成した文章も正解ではないが,人が作った文章がその人の個人と一致するのに対し,ChatGPTが生成する文章は「何となく正しい」と思われることが恐ろしい。自由主義国家も権威主義国家も,それぞれ自分たちの主張が正しいと思い込んでいる中で,ChatGPTの生成した文章が「正しい」として一方に加担すれば,他方の存在をChatGPTが認めないということになる。一神教の宗教みたいになってしまう。
さらに,大量の誤った情報を学習させることで,誤った答えを正しいとして出させてしまう危険性もはらんでいる。
SFの世界では,いずれコンピュータが人類をコントロールしてしまう姿が描かれるが,どうもそれが現実の世界でも起こりそうになってしまっている。ChatGPT以上のAIチャットボットの開発を止めるべきだという意見も,このような危惧から生まれている。あるいは,自分たちが先に,ChatGPT以上のAIチャットボットを開発したい,という醜い考えからかもしれない。(スポーツの世界でも,前に出る者を足止めするためにルール改正が意図的に行われているのが現実である)。
人が創り出すさまざまな作品でも,過去の常識ではありえないモノが次々と出現している。1つが出てくると,雨後の筍のごとく,似たような作品が次々と生み出される。かつてはアングラで一部の範囲にしか広がらなかったものが,いまやインターネットを通じて世界中に一気に広がってしまう。アングラがアングラでなくなってしまった。ChatGPTもさらに,独自の世界,独自の文化を築いてしまうのではないかと筆者は心配している。作家には寿命があるが,AIには寿命がないどころか,永遠に成長し続けてしまうからである。
SFでは,自分を制御できなくなったコンピュータは,自分を止めるための自爆装置を起動させることが描かれている。しかし現実のAIは,恐らく止めることはできない。人が作り出し,人が「改良」と称して機能アップすることで,永遠に拡大を続ける。人類の危機と言われる核兵器が脈々と製造され続けているのと同じ構図である。
もはや,現在の世界中の権力者も金持ちも,核兵器開発やAI開発,そして遺伝子操作などの動きを止めることができないし,逆にどんどん煽っているような気がする。ただでさえ飢えで苦しんでいる人を救うことが,第二次世界大戦後の世界の1つのテーマであったはずなのに,エネルギーも食糧もさらに足りなくなる道を選んでしまったのだろうか。
筆者がChatGPTに1つ期待するとすると,今,戦争をしている国,他国のことを考えずに浪費を続けている国の指導者に対して,「地球滅亡を食い止めるための納得のいく最善策」を提案してくれることである。それは,人格のないChatGPTだからこそできる説得力のある解決策であることを期待したい。そのためには,エネルギー,食糧を潤沢に平等に分配できる仕組みが必要である。日本が貢献できる分野である,という筆者の結論に,こうして結びつくのである。自画自賛ではあるが・・・。