いろいろなモノに対して、「個性」などの言い方で「容認」されることが増えた。認めると、格差をなくそうという方向に 進み、新たなビジネスも生まれるようだ。
逆に、自分から言わせると、これほどの不満を抱えてしまうのは、自分が実は周りから見ると個性的な人間なのかもしれないと錯覚する。昔から、若い人の目には年配者の態度は古くさく見えるものである。
高度成長期を過ぎた辺りで、マスコミは若い世代を指して「新人類」と表現した。今思えば、古い世代のマスコミ人からのステレオタイピングであったといえる。
同じ視点で、改めて自分の周りの人たちを定義すると、“電人類”という言葉が浮かんできた。1日中、スマホを見、そこからの情報しかない。テレビも新聞も見ない。時間ができればゲームをする。そして、これまではマスコミの特権であった情報発信をいとも簡単にしてしまう。
これもステレオタイピングだが、この“電人類”の特徴として、周囲の人との情報遮断があるように思える。動物的な五感を使ったコミュニケーションや気遣いができない。第6感もなく、第7感としてスマホという電気によるコミュニケーション手段が極端に発達したのではないかと考える。
このように定義すると、確かにこのブログで書いてきたさまざまな事象も説明がつくような気がする。旧人類にとっては住みにくい世の中である。