jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

PC,タブレット,スマホ,生成AIを「道具」にする--これが「目的」となることが問題

今からもう45年ほど前のことになる。メディアの仕事についた翌年に,職場に日本語専用ワープロ機が導入された。PCと違って,プリンターが一体化しているのが特徴で,何でもすぐにプリントできた。記事の出稿は指定の原稿用紙と決まっていたので,残念ながらこのプリンターは使えず,原稿用紙への手書きが続いた。

 そのうち,この日本語ワープロで原稿を書き,プリンターで原稿用紙のマス目にピッタリ文字を合わせて印字する調整を必死になっておこない,手書きをやめた。しかし,先輩からは「ワープロ病」と揶揄され,「せっかくいい文章が書けるようになっていたのに,ワープロだと文が荒れるんだよ」と非難された。たしかに,手書きだと文章の推敲に何回か書き直しをしてきた。消しゴムは使うなとも指導された。ワープロだと,消したり順番を入れ替えたりが自由にできるが,じっくり推敲することがなくなったかもしれない。ただ,再現性において平準化が図れるし,語句の統一も検索・置換機能で簡単にできる。筆者は,後者のメリットの方を取った。

 表計算ソフトが,電卓の代わりになった。単純な四則計算でも,あらかじめ数字を表のセルに入力しておき,セル間の計算方法を指定するだけで答えが出る。数字を変えれば結果にすぐ反映される。何度も同じ数字や演算子を打つ必要がなくなった。

 初期のLotus 1-2-3という表計算ソフトには,すでにマクロ機能があった。どこのセルに何を入力するか,次にカーソルを右に動かすのか下に動かすのか,といった単純な一連の動作を記述すると,表が勝手に作られていく,というような単純なものだった。人間がセル間を移動してタイプするのと同じ動きをするので,何分もかかるような代物だったが,みるみるうちに表ができあがるのが快感だった。この仕組みは,後にExcelでは
VisualBasicで再現することになるのだが,プログラムの中身はほとんど理解できなかった。

 筆者とPCとの出会いは,手書き原稿や電卓計算などからの置き換えから始まっている。あくまでも人間の手作業をサポートするための「道具」として使うことがポイントである。文章は頭で考えるし,常に改善を目指している。つまり,人間によるポカミスを防いだり,間違いを見つけてもらったり,整理整頓してもらったりするためにPCを利用してきたのである。この使い方は,今でも変わっていない。

 スマホは,移動中の情報収集と,クラウドとのデータのやり取りのために使っている。もともと,携帯電話が出たときも,「メールのやり取りができる」ことがポイントでの導入だった。電話そのものの使用頻度は少ない。電話が,相手の時間の中に土足で踏み込む道具なので,できるだけ使わないようにしている。自分の時間の中に,突然割り込んでくる電話は,昔から嫌いなのである。その点,メールなら気づいたときに見てもらえばいいからである。どうしても電話しなければならないとき,初期のケータイは声質が悪く,聞き取りづらかったので,音質のいいPHSを選んだ。そういうアナログなところはこだわったのである。このブログも,電車の中でスマホで書き込むことが多い。あくまでも道具なのである。もちろん,ほかに使えそうなアプリがないか検索したり,それを試してみるのもスマホだが,電車の中でも歩きながらでも,四六時中スマホを覗いている人を見ると,「スマホを見ていること」が目的になっており,依存しているように見えてしまうのである。

 現代の若い人は,生まれたときにはPCがあり,スマホがある,という人生を送っている。PCも,扱うのが動画や音楽,そしてゲームが目的となる。スマホはもっぱらゲームだろう。つまり,画面を通じてどんどん送られてくる情報を処理するだけになっているように思える。情報を何も生み出していない。

 いやいや,今やスマホやPCはクリエイティブな情報の発信の道具でもある,という味方はあるだろう。YoutubeInstagramでは個人からのクリエイティブな情報発信をしているからである。ただ,無企画で思いつきで発信される動画などを見ると,雑誌のコラム欄を見ているような気がする。ただし,雑誌のコラムは,雑誌の企画者によって選ばれた洗練された内容であるのに対し,YoutubeやInstabramでは何のフィルターも掛かっていない素の情報が出てきている。個人情報の流出,情報の勝手拡散など,非常に危険性の高い情報発信方法だと感じる。

 しかし,現在は広告メディアとして確立してしまっている。雑誌が売れなくなり,新聞が読まれなくなり,そしてテレビが衰退している中で,少額で投資できるインターネット広告はこれまでのメディアに比べて敷居が低い。それだけに,小さい企業から大手企業までこぞってインターネット広告にシフトしている。ゴリ押しの表現があったり,まともとは思えない表現もあるのだが,受け取り手には合った方法なのだろうか。

 そういう意味では,カメラ付き,ムービー付きのスマホは,「道具」だと言えるのだろう。ただ,その個人発信の情報が価値を生む構図が理解できない。絵画や音楽,映画などのクリエイティブな作品は,価値を生んでいるが,Youtube動画などは「刹那的なエンタテインメント」にしか見えないのである。

 それでもまだ,PCやタブレットスマホで何らかのアクションをしている人は,評価すべきなのだろう。ただ,だれのチェックも受けず,差別発言や誹謗中傷内容があったとしても,そのまま拡散していく危険性があることを再度認識して,理性を持って情報発信してほしいと願うのみである。正直,悪意の情報発信,あるいは相手の生命・財産に関わる犯罪行為にネットワークが使われていることも確かである。

 一方で,情報を受け取るだけの受動的な使い方をしている人は,もはやスマホなどに依存しており,自分の「道具」としての意識がなくなって来ている可能性がある。世の中で,周囲の人への思いやりがなくなってしまったり,会話やコミュニケーションが取れない人が増えているように思えるのは,1つにはこのスマホ依存があるからのように思える。

 筆者も,リアルでアナログでウェットな人付き合いは苦手な方だが,会社や地域コミュニティーなどの活動を通じて新しい人間関係に触れることは刺激にはなっている。

 一方で,生成AIの登場で,人格を持ったようなAIとの付き合い方は,今のところ拒絶している。この生成AIは「道具」としてどう使えるのかが,理解しきれていないからである。何となく飲み込まれそうな恐怖を覚えている。

 しかし,若い人は抵抗なく生成AIを使っているように思える。いや,使っているのか,使われているのか,あるいは生成AIが提示する情報が「真実」と認識してしまっているのか,などと考えると,すでに生成AIによる人類の洗脳が始まっているように感じる。しかもそれを推進しているのが,世界を牛耳るアメリカの新興IT企業だということになると,ますますその暴走を止められないような気がする。

 これまでの「真実」のビッグデータから「虚偽」のビッグデータの構築の段階に入ってしまった。虚偽をもはや人間は判断できないほどになっている。これを判断するAIも必要だが,まだできていないし,出てくる気もしない。

 もう一度,人間のあるべき姿を認識しなおす必要があると思う。お金を稼いで楽しむだけの人生は,何も生み出さない。価値のあるモノを生み出し,その価値に見合った報酬を得て,価値の貢献のご褒美としての楽しみを得る,という義務と権利のバランスを失ってはならない。価値のない情報で楽に儲けようとする今の風潮は,人類の破滅の予感を一段と高めてしまっていると筆者は感じるのである。モノづくりの原点に立ち戻りたいと思うのである。