人は、社会生活を送るために最低限の衣服は必要かもしれない。偏見かもしれないが、ヌーディストの感覚が自然とは思えない。あくまでも社会性を考えた場合の意見である。
さてその最低限の衣服以上のモノは、基本的にはオシャレである。形、色、素材、機能、何でもありだ。この自由さが個性でもある。
オシャレの目的は、おそらく2つある。1つは集団の中で協調を保ちつつ自分を主張するため、もう1つは相手のことを考えずにただ目立とうとするためである。
基本的に同じ格好をしてその中で違いを出すのが前者である。控え目なところが「粋」を感じさせる。しかし後者は、単なる自己主張になりがちである。
動物の場合は,オシャレをしているのはオスである。メスに自分をアピールし,パートナーを得るためと言われているが,身体の大きさや色の派手さなどは途中で変えられるわけでもない。大きな動きをしてアピールする方法は,努力が報われるかもしれない。家を立派に作るオスも,メスにアピールする方法の一つである。
人の場合は,オシャレは金力に半分直結している。低価格でいくらセンスがいいオシャレをしても,ブランドモノには敵わない面もある。男性がブランドモノでオシャレしていれば,財力,金力があることをアピールしており,女性にとっては魅力の一つに見えるだろう。逆に女性の場合もブランドモノのオシャレは,一種のセンスのアピールになるだろう。男性からモテモテであることを同性にアピールする効果もある。
身体の大きさや顔の美しさは,持って生まれたものであり,基本的には遺伝学的に優れた性質を示すものである。一方,オシャレは外見上を意図的に飾るものである。金力を反映するとはいえ,金力が永遠の価値ではない。むしろ,動物の大きな動作のアピールに相当する人の能力は,その人の努力によっていくらでも向上させることができるものである。これは外見では分からない。
ブランドモノは,「金で信用を買う」ものだと思う。しかし,ブランドモノを身に着けている人を見ると,単なるブランドの広告塔にさせられているだけではないかと思うのである。お金持ちは,普通にブランドモノを買って身につける。別にそのモノの良し悪しを判断しているわけではなく,ただ買っているだけではないのか。株で投資する際,別にその企業の中身に興味があるわけではなく,株価が上がることだけの価値だけで買っているのと同じである。どのブランドでも構わないのである。
筆者はお金がないので,ブランドモノは買えない。ひがみでもある。しかし,近年の100円ショップの商品の機能やクオリティには驚くべきものがあると感じている。気軽に試せるのも楽しみの一つだ。そのうえで,必要な商品であればより良いものの購入を考えるという楽しみができた。中国によるモノの価格破壊は,凄まじいものがある。一方で,ニセブランドを大量に供給する国でもある。オシャレすることに囚われて常識的な感覚がマヒすると,そこに付け込まれて犯罪の引き金にもなる。日本のさまざまな商品のブランド化が一種のブームだが,同じように偽装問題が起きる。見せかけだけでなく,本当に品質で勝負するのが本質だと思うのだが,日本の製造業もクオリティ優先の意識が欠けてしまったのではないかと思う。消費者も目を覚まし,外国ブランド志向をいい加減やめないと,ますます世界から取り残されてしまうように感じている。