怒濤の開催で終わった東京オリンピック、パラリンピック。COVID-19の影響で直前に緊張事態宣言が発せられ、それでも半ば強引な開催だった。オリンピック期間中からパラリンピック開催までの間も感染確認数が増え続け、それでもパラリンピックは開催。閉会から急速に感染確認者数が減った。
感染確認者が増えた理由は、飲食店での密な応援と、期間中についでに訪れた海外からの旅行者が全国の観光地を巡ったことだと筆者は分析している。人流と密、そして興奮によるマイクロ飛沫の拡散である。
その後、ワクチン接種率がさらに上がり、スポーツというお祭り騒ぎがなくなり、鎮静化に向かったが季節的に換気の悪い密な状態でアルコール飲食のために再拡大を予測している。
さて、オリンピックのあと、他の国際大会は引き続き行われている。選手にとっては、オリンピックだろうと国際大会であろうと、闘いに変わりはない。オリンピックだけが大騒ぎして参加資格を厳しくしたりしている、観客も結局はその競技に関心のある人だけであり、中継も限定的なことも同じである。
改めてオリンピックとはなんだろうかと考えてみる必要があるのではないか。
オリンピックの開催によって、認識できるのは、世界中からどの地域からも参加できることの重要性である。テニスやサッカーなど、国際大会を持つ競技は、参加できるのは上位の選手だけであり、したがって小国の選手はほぼ参加できない。しかし、オリンピックは世界のあらゆる地域の代表として参加できる。この平等性がオリンピックの特徴である。差別はない。たとえ実力はなくても参加できることに意義があるのである。
ならば、オリンピック後には、これらの小国の存在がもっとクローズアップされてもいいはずだが、期間が終わるとまったく話題にもならない。だから4年に1度でいいということも言えるのかもしれないが、なんだか空しい。特に2020ではCOVID-19のために十分な交流も滞在もできなかった。残念なことである。
もっと平等性を高めるなら、例えば各国の1競技の参加者を1人か2人に制限してはどうだろうか。競技の重複もなくす。その中で競技するのだが、順位はあまり考えず、その後の交流の場として、課題の議論を行うようなチャンスにしてはどうだろうか。ただ走りに来るだけでなく、世界のその競技を今後どのように発展させるかの国際会議を個別き開くのである。機会均等にするための各国の交流など、新しい視点が生まれるのではないか。
競技場に多くの予算が使われ、本来は経済の発展も目標になるオリンピックだが、もうその使命は終わったのではないかと考えるのである。