jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

人を描く難しさ--ハリウッド映画のジレンマ

2022/3/27に開かれた米アカデミー賞の発表・授賞式で、俳優、ウィル・スミスが妻の髪形をからかう冗談を言ったコメディアンのクリス・ロックに激怒し、ステージ上で平手打ちした。

 この事件について,個人の行動,言動に対する賛否,コメディアンという仕事に対する賛否,そして人種問題などが,それぞれの立場でコメントされている。個々のコメントについては,筆者は言及しない。というのも,なるべくして起こった事件だからである。

 もともとハリウッド映画は,白人中心,アメリカ中心のエンタテインメントを生み出す場であった。したがって,アメリカ先住民は西部劇ではインディアンとして敵として描かれ,黒人はアメリカ南部で奴隷としてアフリカから連れて来られたという歴史を引きずってきた。

 そして近年は,さまざまなマイノリティをテーマとした映画が作られてきた。身体障害,自閉症,戦争のPTSD,高齢者,そして人種も黒人,中国人俳優を起用した日本人など。戦う女性も多く描かれてきた。いわば「問題作」である。

 多民族国家であるアメリカだが,キリスト教や白人至上主義の勢力は絶大である。今や,どのスポーツ競技でも黒人の身体能力の高さは評価され,トップアスリートとして活躍の場を得ている。日本人でも,イチロー大谷翔平などが評価されているし,バスケットボールでも八村 塁,渡邊雄太などが大活躍している。それでも,人種の壁がなくなっているとは見えない。

 ハリウッド映画でも,人種やマイノリティ,男女の壁に向かい合ったテーマの映画が多く作られてきた。ディズニー映画でも,主役であるプリンセスが白人から有色人種へと幅を広げてきている。

 映画が,社会問題を題材にすることについては,筆者は個人的には否定的である。映画に限らず,小説もアニメもコミックも,血なまぐさい設定や犯罪をテーマにして構成して制作され,一般人に提供されている。もともと,一般人が経験できないような世界を描くことが,エンタテインメントとしての映画や小説などの創作物だと思うのだが,人種差別,戦争,犯罪,そして身体障害や精神障害などを含む病気をテーマにすることは,一般人にも関係のあるテーマでもあることから,共感を引き起こせる可能性も高いと同時に,非常にデリケートなテーマでもある。

 一方で,マイノリティーからトップアーティストに登り詰めたアスリートやアーティストにとって,その地位がいかに不安定なものであるか,その地位を守るためにどれほど努力しなければならないかについては,想像するに余りある。

 これまで築き上げてきた地位が,ひょっとしたら一瞬で吹っ飛ぶ行為だったかもしれないし,これを引き起こしたコメディアンの発言にも場をわきまえなかったという問題があったと思われるが,その根幹にあるハラスメントが,ハリウッド映画業界,アメリカ全体に根深くある。残念なことにこれはアメリカの問題だけでなく,世界各地に存在する問題であり,日中,日韓,日露など,極東地域にも関連する話題である。

 かつて,このようなマイナーなテーマの映画は,自主制作映画としてアングラ映画館で上映されていた。大きなところでも岩波ホールで上映されるようなものだったが,ハリウッドでも日本映画でも,今や主流のテーマとなっている。

 「問題作」で興味を引くのは1つの手法だが,メジャーな業界でこの手法を採るべきなのかどうかについては,ずっと疑問を持ってきた。したがって,筆者はアカデミー賞受賞作はもちろん,基本的に映画は見ないし,ベストセラー小説も一切読まない。まして芥川賞直木賞の作品も一切読まない。正直,どうせ数作で消えてしまう作家だと思っているからである。

 民族間の価値観の違いで起きる戦争や,トップに君臨したことで自らの保身のために常識では考えられない行動を取る世界の指導者たち,「先生」と呼ばれることで自分が万能と思って犯罪に手を染めてしまう一部の専門職の人たちもいる。つくづく,カネと権力は人を変えてしまい,人生を狂わせてしまうものだと思わざるをえない。

 まぁ,筆者は勧善懲悪のエンタテインメントを求めているから,問題作に感心がない,ということになるのかもしれない。地球を侵略する敵やエイリアンから地球を守る,というファンタジーがいい。コンピュータが趣味の筆者にとって,人の心を持ったロボットの話も面白いのだが,さすがに人を超えた能力を持ってしまうと,これは近未来の現実に見えてきて,恐ろしくなってくる。AI(人工知能)も,現在の開発がすべて野放し状態で進められており,恐ろしい。

 昨今のアニメの表現も,ずいぶんと血生臭くなっている。人物の表情も,常軌を逸した人の目つきをしていたりする。これは子どもたちに見せていいものなのだろうかと疑わざるを得ない。

 作家,脚本家,演出家,そして出演者と,どこかで誰かが「?」クエスチョンマークを挟むプロセスが必要なのではないか。ここでも,表現の自由と盾に主張する側と,倫理を盾に防ぐ側がきちんと機能する必要を感じる。