スシローで食べた皿をベルトコンベアに戻したり,調味料瓶の口を舐めるなどの迷惑行為が起きた。人とのコミュニケーションができない若者が,SNSという自己アピールの手段を手に入れたことによる犯行である。
回転寿司という日本発祥の料理提供手段において,逆を突かれた格好になる。
冷静に考えれば,握り寿司が皿に載ったままベルトコンベア上を何分も移動し続ける形態は,店側の論理であり,客側のメリットは少ない。人件費を抑え,お客からの注文に柔軟に対応することなく適当な割合で握ってはレーンに載せるだけである。客側からすると,握りたてではない寿司を食べさせられることになるほか,移動中にホコリや他の客のツバがかかる可能性も否定できない。取り間違いもあるので,取った皿を元に戻すことは可能となる。どんな皿と寿司が手元に来るのか,正直言えばまったく保証ができない。それでも,人件費を抑えられる分,安く提供できてきたのが,ここまで普及した理由だろう。
衛生面を向上させるために,ベルトコンベア上のカプセルの中に皿を載せる工夫をした店もある。それでも,意図的な皿戻しは可能である。
口頭で注文を受ける代わりに,タブレットで注文を受ける仕組みを取り入れた店も多い。聞き間違いもなく,正確であり,客とのトラブルをなくすための投資である。ここまで来ると,バックヤードで何が行われているのかすら見えなくなるし,店とのコミュニケーションもまったくなくなる。悪く勘ぐれば,時間の過ぎたネタを回そうと思えば回せる。一方,テーブル上に提供されている皿や醤油,ガリ,お茶などを,客側がどのように扱っているかを店側が知る余地もない。
普通の飲食店なら,接客側が店内を歩いたり,客の様子を見たりしているので,回転寿司店で起きたような犯罪は起きないと思われる。そういう意味では,人の目を盗んで犯罪を実行したという意味では,確信犯であり,ちょっとしたイタズラでは済まされないのは明白である。
リーズナブルな価格で飲食を提供しようという努力をアダで返したような事件なのだが,おそらくこの犯罪を犯した若者は,十分なお金を持っていたと考えられる。スシローをターゲットとしたのは,度重なる店側の不祥事に対する攻撃であったかもしれない。しかし,本当に店側に抗議するのなら,その店を利用しないという静かな抵抗をすれば済むはずである。今回の事件による損失に対して賠償請求すると言っているが,そもそも自分たちの不祥事による信頼回復について,たとえば経営陣の刷新といった対応をしたかと言えば,何もなかったのではないか。
日本の飲食店が衛生管理を徹底的にしているから,客側もそれに応えるべきだ,といった論調があったが,こと回転寿司においては,疑問である。
ただ,調味料瓶を舐めるとか,自分で手を付けた食べ物を元のレーンに戻すという行為そのものは,常識という範囲を越えて,人間失格と言わざるを得ない。つまり,ルールを設けるまでもないことであり,エチケットやマナーがしつけられていない,あるいは理性を持っていないと言えるのである。
これは,犯罪を犯した若者の親世代がしつけに無関心,あるいは無頓着だったことによると判断する。というのも,20世紀後半の高度成長期がバブル破裂によって崩壊し,日本が一気に貧乏国に転じてしまったころに社会人になった世代が親世代だからである。働き口がない,あっても給料が低い,夫婦共働き世代で,子供の家庭内教育やしつけなどが疎かになっており,そこにゲーム,スマホという子供の逃げ道ができ,親とのコミュニケーションがなくなった子供世代が,令和時代になってさまざまな犯罪を発明しているように思えてならない。オレオレ詐欺も,正規採用されず,携帯電話1本でできる犯罪として,「Z世代」特有の犯罪だと言えるのではないだろうか。
「インスタ映え」が食べ物の必須条件になっており,飲食提供側も狂ってきている。見栄えが第1で,そのために食材に妥協をせず,したがってとんでもない価格のメニューができあがることになる。なぜかこれを写真や動画でインターネット上にアップすることが客側の第一目的となっており,味わうことすらしない。タピオカ紅茶などは,買って写真を撮ってアップしたら道端に捨てる,などということが平気で行われていたという。もったいない世代の筆者としては,まったく考えられない。
正直言って,日本は国連に同調してSDGsを盛んに語っている世界で唯一の国らしい。政治家が背広の襟に付けているカラフルなリング状のバッチは,他の国ではまったく見かけないという。実際,エネルギー問題にしても,食糧問題にしても,矛盾だらけである。
おそらく,最大の裏方は広告業界,広告代理店ではないだろうか。彼らが健全なマスメディアから暗黒のインターネットメディアに軸足を移したことで,有象無象のカネの亡者が広告にたかり,その広告効果を最大限にする手法として「いいね」と「映え」なる価値観を生み出してしまった。そして,大食い,激辛,超高級などの価値観を膨らませた結果,マスメディアもこれに乗らざるをえなくなってしまった。ここに広告出演料の安い芸人をあきれるほど投入し,さらにメディアの価値を下げてしまっているのが,現在のメディアである。
廃棄食材を減らして無駄をなくしましょう,と言っている一方で,大食い,行列店情報を流している。魚が不漁,米が不作などと言いながら,高級食材は輸出して海外の富裕層だけを喜ばせているだけで,アフリカなどの最貧国の食糧への貢献はまったくしていないばかりか,日本国民ですら1/3の子供が満足に食事ができずに「子ども食堂」が次から次へと作られている,というのは,いったいどういう経済原理なのか,不思議で仕方がない。
日本食が世界中で称賛されているのは非常に嬉しいことである。ならば,日本に来てもらって食べてもらえばいい。その方が外貨が日本に落ちる。日本人の口に入らない高級食材が海外,特に中国にどんどん流れて行ってしまうのは,危険である。すでに,とても日本食とは思えないエセ日本食レストランが世界各国にできており,その経営が中国人によるものがほとんどだからである。これを日本食と思ってもらいたくない,というメニューまであるという。
日本国内の食料流通チェーンにしても,JA(農協)が決めた規格内での取引の段階でおそらく半分以上が廃棄され,ビニール袋に入れることで消費期限が多少は延びるものの,過剰包装とともにまた売れ残りで1/3が廃棄される。ならば,規格外作物をきちんと子供食堂まで届ける別の流通があることが望ましいが,運送費の高騰,人件費の高騰などにより,ここでも問題が山積している。複数県が相乗りで運用するなどの工夫ができないものだろうか。
そして,主食である米の自給自足と海外輸出,農水産製品の工場生産による価格安定化と,プラントやノウハウの輸出,海洋国としての微細藻類の食料展開とその輸出などを,もっと計画的に推進する必要がある。
高度成長期に育った筆者は,日本という国がいかに食べ物や天候に恵まれた国だろうかということを最も享受できた世代だったと振り返っている。その前の第二次世界大戦の戦前,戦中の人たちは,正直言って貧乏な世の中で育ったことから,戦後の経済成長の中で貧乏の反動によって餓鬼のような我がままな人生を送ることになった。飽食の時代に生きてしまった。
一方,経済が破綻した時期に育ったZ世代の若者は,ブラックだろうがなんだろうが,日銭を簡単に稼げるアルバイトには恵まれているので,食べるための基本的なカネには困っていない。必要なのは遊ぶカネであり,このための単発バイトに走る結果,日本全体の生産性が落ちてしまい,ますますまともに継続して働ける環境がなくなりつつある。そしてそのブラックの最先端がオレオレ詐欺であり,さらにオレオレ詐欺よりも効率のいい強盗へと犯罪がエスカレートしてしまいつつある。
日本において富の不均衡がますます進み,食に対する感覚が鈍くなっているように思う。筆者は,食材の個別の味を活かす食べ物が好きである。しかし近年,ありえないような組み合わせの食べ物がどんどん登場している。筆者は,そんな食材をもてあそぶような創作料理は基本的に反対である。
一方で,若い人は親にまともな食事を作ってもらっていないのではないか。食育の重要性が叫ばれているが,「お袋の味」などということばも,もう死語なのではないか。多くの若者はほとんどが外食である。あるいはコンビニで弁当を買い,惣菜を買って温めて食べるだけ。これでは,すべて外食と変わらない。自炊したとしても,自分で調味料を合わせて味を作ることはほとんどないだろう。外食や惣菜の強い味付けに慣らされてしまっているのではないだろうか。
濃い味付けは飽食の証拠である。味変が普通になってくると,食べ物本来の味に忠実な料理では物足りなくなってきて,際限なく新しい味や組み合わせに挑戦したくなる。食道楽は,一種の麻薬である。多くの料理人があくなき探究を続けているが,正直言って素材から言わせれば余計なお世話だと思う。
「食材で遊ぶな」といつも感じてしまう。食事をまともに取れない最貧国のためだけではなく,7人に1人の子どもが貧困状態にあるという日本で,よくもヌケヌケとパフォーマンスを繰り返し,またそれに高額の代金を払い,さらにこれらをイベントとして公共の電波で流すメディアがあるという流れが,日本をダメにしていると思う。
もちろん,ギネス目当てで巨大な食を作って騒ぐイベントも犯罪だと思う。こういうイベントは欧米から導入されたと思われるが,実に馬鹿げている。大食い番組も含めて,企画者も出演者も参加者も,地球規模の常識から考えれば断罪すべきではないのだろうか。
今日もおそらく,グルメ番組や新作料理番組,大食い番組が企画され,日本中で飲食店が凌ぎを削って新作料理を提供しようとしている。テレビならピクチャーインピクチャーでリアルタイムのアフリカの状況や日本の子供食堂の状況,廃棄される食材の映像を同時に流すことが,メディアとしての使命ではないのか。別番組でいくらSDGsを叫んでも,まったく無意味である。「広告費稼ぎの二枚舌」である。