新型コロナウイルス禍で注目されたのが、エッセンシャルワーカーである。医療関係者やゴミ収集などの衛生関係者、輸送、公共交通機関関係者など、社会を陰で支える人たちである。
エッセンシャルワーカーがいなければ、移動もできないし、モノも届かない。病気の時のサポートもない。コロナウイルス禍でも危険な動きをしてでも社会を回すために活躍してくれた。
しかし、エッセンシャルワーカーよりもさらに大事なのは、経済の基礎である外貨を稼ぐベースワーカーである。国に富をもたらすために日々働き、外貨を稼ぐ。かつては製造業がこのベースワークを担っていた。基本的にモノづくりの労働環境は良くない。3K(汚い,臭い,危険)と言われ,汗だくになり,油まみれになって,時間とモノの流れに追われて仕事をして,モノを作ってきた。日々,新しい工夫を考え,改善提案し,そして品質を上げ,コストを下げ,会社の業績に貢献し,仕事の満足感と達成感,そしてそれに見合った給与の増加などを経験してきた。苦しく辛い仕事だが,やりがいがあり,イキイキと人生を送ることができた。会社という連帯感を生み出すチームの力もあった。
現在は,この外貨を稼げるベースワークがなくなっている。資源のない日本は,材料を輸入して製品に加工して輸出するというモノづくり産業で経済発展したが,そのモノづくりというベースワークをアジア諸国,そして最終的に中国に取られてしまった。日本はもはや,円の価値すら地に落ちてしまった状態で,搾取される一方である。
戦後の高度成長時代に,モノづくり産業が一気に進展し,工場で働くベースワーカーとともに,そのモノを売ったり買ったり,さらに付加価値をつける第3次産業,いわゆるサービス産業も大きく発展した。こちらは,株式会社という組織の中でサラリーマンとして働くベースワーカーが経済を支えてきた。しかし,モノづくりがなくなれば,サービス産業も行方を失う。海外との商売も,かつては独占的に日本が勝っていたが,いまはほとんど中国やインドなどに持って行かれてしまっている。逆に観光業も躍起になってはいるものの,古い日本文化だけでは底が知れている。海外からの観光事業をすべて受け入れるだけの場所も余裕もない。門戸を最大限拡大しても,あとは枯野が残るだけになるだろう。「祇園精舎の鐘の音」である。
さらに厄介なのは,ベースワークの余暇としてのスポーツやエンタテインメントが,なんとなくベースワーク的にもてはやされてしまっていることである。
野球やサッカーなどのスポーツは,日本では一生懸命働く人の娯楽としてプロスポーツとして発展した。モノづくり産業,鉄道企業,そして新聞社がスポンサーになり,活動を支えてきた。テレビの発展とともに,家庭で観て楽しむ番組として育てられてきた。
しかし,モノづくり産業が行き詰まり,今のプロ野球は金融会社がほぼ独占状態にある。カネのあるところにエンタテインメントのスポンサーが移ってしまったのである。
では金融業が日本のベースワークになっているかと言えば,これがまったくの反対である。海外から外貨を稼ぐどころか,日本の金融資産が海外投資家によって思うママに動かされ,跡形もなく流出していくのを止めることもできない。カネというベースワークがあるとしても,それは裏社会で成り立っている話で,リアル社会は食い物になっているだけである。そこでは,ネット企業や仮想通貨が闇で横行している世界なのだが,日本企業はこうした違法行為をしないというある意味で正義感があるばかりに,勝つことができないのである。
スポーツの世界で,海外で活躍している日本人選手が大きく話題になっている。しかし,かつての経済成長期の日本ではその経済的牽引力は大きかったが,現在はまったく効果がなく,ただのピンポイントの話題にしかならない。まったく経済的効果を上げていない。しかも逆に,このスポーツやエンタテインメントの世界に夢を膨らませて,プロのスポーツ選手を目指したり,エンタテインメントを仕事にしようとする若者が激増し,汗水だして働くベースワーカーやエッセンシャルワーカーを目指す若者がいなくなっている。スポーツ選手も,成功するのはごく一握り,エンタテインメントの世界も,日本語の笑いの文化は日本という限られた世界でしか通用しない一時的なブームであることを認識できていない。