jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

分離教育に対する国連からの勧告--外圧によって日本の教育の根本の問題である大学入試がなくなる可能性も

2022/9/10のWebニュースに,https://www.msn.com/ja-jp/news/national/日本に障害児の分離教育をやめるよう要請/ar-AA11DMbn?ocid=msedgntp&cvid=778f320f9f5b4615aad43f2c57141a47
という短いニュースがあった。国連から,特別支援学級の廃止などの勧告があったとのことである。

 分離教育は,昭和22年の学校教育法に規定がある。そして2006年に今の名称になったらしい。分離することによって教育の機会均等が失われたり,差別意識が助長されるなどが指摘されたものと見られ,世界標準では分離をなくせ,ということのようだ。

 現場では,健常者と障害者を一緒に教育することによる指導の難しさがあり,それぞれ適切な配慮をするために分離してきたはずだが,世の中はそれを許さなくなってきているのかもしれない。

 これに対する議論はこれから始まると思われるが,日本では意見は真っ二つに分かれるに違いない。

 筆者は,日本の教育問題の元凶が大学入試制度にあると思っている。一時期導入されたゆとり教育も,大学入試がなければもっと進めることができたはずだ。大学入試こそ,教育の機会均等を脅かしている元凶だと思うからである。

 大学入試制度をなくせば,子供それぞれが自分のやりたい勉強を見つけ,そして社会に巣立っていくはずである。大学入試という関門を突破するために,暗記が試験ノウハウばかり教わり,自分で考えることをしない人間が東京大学を目指してそして入学している。

 最も難しいと言われる理III類も,本来医者を目指す人間が受験しているわけではなく,単に実力だめしで入試して合格する人が半分もいる。日本の医療が弱くなるはずである。東京大学はすでに「東京クイズ王専門学校」になっていると認識している。東大が入試をやめてAOオンリーにすれば,今の馬鹿げた日本ローカルの入試戦争とその関連産業を一掃できると思う。

 国連勧告は,一種の外圧である。これを否定すれば,日本が世界標準からさらに取り残され,ガラパゴス化するのは目に見えている。いや,すでにガラパゴス化している。国際社会の中で,日本の存在がどんどん薄くなっているのも,世界に向けて優秀な人材が輩出できず,日本ローカルで経済が回ってしまっているからである。

 いまや,日本から輸出できるのはほぼアニメだけになった。しかも,権利を売るだけであとは各国が各国仕様に吹き替えているだけである。せっかく東京クイズ王専門学校を出たのなら,日本ローカルを市場にして食いつぶすより,世界に打って出てほしいものである。結局,クイズが「日本語のダジャレ」に過ぎないことが認識できるだろう。そのレベルの文化創出に過ぎないからである。

 

肉食と草食--男の本性は野獣以下かもしれない

男と女の関係について、どうすれば平等、あるいは対等になるか、これまでにもいろいろ考えてきた。平等や対等であるには、理性、知恵、知識、話術など、頭を使うしかないという結論を出したが、ほとんど解決にはならなかった。

   生物界を考えて、人間の男女の関係を「肉食獣と草食獣」に例えた時、やはり男女差を乗り越えるのは大変だと改めて思った。男は肉食獣、女は草食獣である、と設定すると、すべての行動を表すことができるように思われるのである。

   通常、肉食は食料として食欲を満たすものだが、男にとっての肉は、セックスの対象としての肉欲であり性欲である。食欲と同じく,少なくとも定期的に空腹になり,食べなければ満足しない。しかも,美味しそうな対象があれば,絶対空腹でなくても欲が湧き上がってくるし,食することもできてしまう。

 ヒト以外の動物は,常に生きるか死ぬかの瀬戸際で生活しているため,無駄なことはしない。空腹でなければ狩をすることもないし,メスが受精可能期に入って発情していなければ交尾もしない。ところが人間は,美味しそうなものが目の前にあると,本能的に欲が発生し,これを制するという知性が働かなくなってしまう。食欲の場合は,自分が太るだけだが,男性の性欲の場合は無差別な性欲発揮行動に移ってしまう。性犯罪,性産業に走る可能性を常に持っているが,実際の行動に移らなくても常に欲の対象を探す行動と感情を持っているのが,人間の男性である。

 一方,女性にとっての性欲は,ベターパートナーを選択する際のワクワク感や,一緒にいるときの安心感,そして抱擁時の脱力感など,さまざまな場面での高揚感を求める気持ちを,ある意味で勘違いしていると思われる。ハンサムな男性がいれば“胸キュン”となり,それは結婚を意識した感情である。

 しかし,女性の考える結婚が,家庭を築きパートナーと共に共同生活をする,という長期の形であるのに対し,男性の考える結婚は,他の生物における“結婚”,つまり子孫を残すための交接と大差がない。さらに人間の男性が厄介なのは,性欲を満たすためだけの交接が目的でもあるからである。肉食獣の食欲と同様,腹が減れば次の獲物を求める。キリがないのである。

 肉食獣は,強いオスが自分のDNAを子孫に残すレースに勝つ。このために,オス同士で力づくの争いが行われる。大きく力強いことが有利であり,メスはその交接を基本的に受け入れることになる。負けたオスは子孫を残すことができないが,性欲は基本的に年1回の繁殖期のみであり,そのほかの季節は普通に生活できる。しかし人間のオスは1年中が交接可能時期であり,常に性欲を満たそうとするので,さまざまなトラブルの元になる。

 一方,肉食獣の獲物となる草食獣は,エサとしてのクオリティを求められる。子供は弱くて美味いのでエサとしては適切だが,一般的に親や集団で子供を守ろうとするため,逆襲に遭う危険もある。年寄りも弱くて狙いやすいが,美味さの点では若くて元気な成獣を狙う。人間のオスも,厄介なことに若くて元気な女性を性欲の対象とする。しかも適齢期の男性ばかりか,結婚している中年,そして老年以上の男性も,やはり若い女性には性的な魅力を覚え,性欲の対象とするのである。

 好みにもよるが,性的な魅力のある女性が対象としてまず選ばれる。太り過ぎ,痩せ過ぎ,年配者などに対して,性的な興奮を覚えなければ対象とされない。

 男性に選ばれるために,女性は自らを魅力的に見せる努力をする。しかし,選ばれたからといって,男性が家庭に収まることはない。男性の肉食がとどまることはなく,それは家庭外へと向いて行ってしまうのである。

 トムソンガゼルとライオンの関係,ただし,トムソンガゼルを獲物として襲うのは基本的にメスのライオンなので,ちょっと例えは違うかもしれない。むしろ「美女と野獣」かもしれない。物語では,野獣は心が解けるのだが,残念ながら一般の男性は物語の野獣以下の肉食獣のままなのである。

 

警察の得意技「咳ばらいネズミ取り」はどうだろうか--鉄道警察隊,機動捜査隊の業務拡充を提案

2022年9月に入って、通常勤務に戻した。筆者は相変わらずマスク着用が原則だが、オフィスは基本的に感染者がいないことがほぼ確実なので、毎時5分は外しっぱなしにしている。マスクインナーカバーも使用し、比較的楽なはずだが、やはり1日中マスク着用はきつい。

   第7波が、筆者のほぼ予測どおりに8月末でピークアウトしたようだ。下図の緑のラインは,まだ感染が拡大し続けていた8/4に予測したもので,8月いっぱいでピークアウトし,その後はダラダラと9月末にかけて減るとしたものである。再びリバウンドがないことを祈りたい。

第7波予測と実績(2022/9/10)

これからは寒い季節でのインフルエンザとの二重感染も危惧されている。まだまだ気は抜けないと思って緊張感を持って出勤しているが、世の中はもはや無法地帯状態になっている。

   電車の窓開けを電鉄側もいい加減になっている。乗客も咳エチケットは相変わらず守れず、1車両に2人は必ず咳をし続ける。迷惑であることに気づかないばかりか、検査にも絶対に行かない人たちである。

   とにかく、「ゴホンといえばオミクロン」である 6月に咳をしていることがおかしい--それはオミクロンです - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/6/15。少なくとも症状のある人たちを即、車両から排除してほしいのだが、これを実行する人がいない。中国なら軍隊の出番だが、日本にはその仕組みがない。

   そこで提案は,警察による抜き打ちの「咳ばらいネズミ取り」である。

 もっとも,警察の問題は自分たちの縄張り意識の高さである。スピード違反を取り締まる実際のネズミ捕りを行うのは交通警察である。街のパトロールや交番勤務は地域警察,ストーカー被害や少年犯罪の取り締まりは生活安全警察というようである。ほかにも,刑事警察,警備警察,総務・警務警察がある。これが都道府県警察,つまり「県警」と東京の「警視庁」の職種である。そして各都道府県の警察本部の現場の実行部隊として,所轄署が置かれ,実際の街角の職場が交番や派出所ということになる。さらに,行政官庁としての警察庁都道府県警察の上部組織としてある。

 ドラマでは,警視庁と警察庁,県警と所轄署,一課と六課など,組織の壁を越えることによる内部のいざこざが描かれることも多い。実際は,棲み分けてお互いに干渉しないのではないだろうか。

 ネズミ捕りを行う交通警察は,基本は高圧的である。何しろ,交通違反は明確な取り締まり対象であり,猶予の余地がないからである。現場を押さえ,逃げれば追いかける。有無を言わさない。

 一方,咳ばらいネズミ捕りはどうだろうか。日頃の取り締まりに慣れた交通警察は担当してはくれない。街中の咳ばらいだと交番勤務の警察官が業務に当たると思われるが,暴力沙汰など犯罪を犯しているわけではないので,咳ばらいの取り締まりなどできないと言うだろう。まして,電車の中に警察が乗って巡回するといった海外のような取り締まりは今のところ日本では実現しない。

 結局,交通警察以外は,警察による抑止力がほとんど効かないのが日本である。

 地下鉄サリン事件が起きたのは1995年3月20日。その後,しばらくの間は電車内での大きな事件は起きなかったように思うのだが,近年は急に薬品や燃焼物,刃物を使った犯罪が増えている。また,相変わらず痴漢行為も減っていないようである。

 ニューヨークの地下鉄は現在はどうかわからないが,30年前に筆者が留学していたころは2両に1人の割合で制服警察官が乗っていて,乗客の乗り降りのチェックや車内の巡回をしていた。殺傷事件も頻繁に起きていたニューヨーク地下鉄ならではの重々しい雰囲気だったが,抑止力はたしかに効いており,筆者のようなアジア人でも安心して乗れた。現場での事件対応も早かったと思われる。

 これに対して,日本の電車内はいかにも無防備である。航空機は,荷物チェックから金属探知機までさまざまなチェックをした上で搭乗ができるが,電車の場合は持ち物チェックも身体チェックも何もない。車内でなにか起きても,「SOSボタンを押してください」と言われているだけで,車掌がそれに答えたとしても,被害の拡大を防ぐことはできない。またそれを事前に監視できるカメラシステムも,プライバシーがどうこうという変な人権団体の主張によって車両に搭載できない。仮に搭載しても,これを常時監視するための人員も確保できないし,また残念ながら「犯罪を防止しよう」という積極的なマインドが,電鉄会社側には見られない。

 自分たちで犯罪防止をできないのなら,警察と手を組んでもいいはずだが,警察もまた管轄外だと逃げ回る。結局,電車やバスなどの公共移動空間の中は,犯罪を誘発しやすい環境になっていると言える。

 車内での放火や殺傷などの重大事件も,コロナ禍での人々の精神の荒廃の中で起きやすくなっている。咳ばらいや大声での談笑を注意した正義感のある若者が暴力を受けるという不条理な傷害事件も起きている。痴漢も後を絶たない。

 ドラマで出てくる鉄道警察隊は,実際には都道府県警察の地域警察や生活安全警察の中にあるはずだが,おそらく私服警察なので目につかないのか,活動がまったく見えない。やはりドラマにあるように,大きなターミナル駅のパトロールが中心業務なのだろうか。

 新型コロナウイルスが最初に「猛威を振るい始めた」2020年2月に筆者は, 国土交通大臣は,公共交通機関に乗車・入場禁止をさせるべき。 - jeyseni's diary 2020/2/21 と提言している。駅,改札の手前で,発熱のある人,咳やくしゃみをしている人,そしてマスクを着用していない人を阻止して,とにかく電車に乗せない,都心に向かわせない,という人流抑制とフィルタリングをすべき,と提言している。当時,電鉄会社は窓開けはおろか,マスク着用の呼びかけも一切していなかったことは,上記のリンク先を見ていただければ分かると思う。電車で窓開けを呼びかけ始めたのは,それから1年半も経ってオリンピックが終わって第5波がピークのころである 「Quiet Please」サインを,COVID-19対策にも使いたいのだが・・・。 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/8/31。あまりにも無責任ではないか。逆に,今でも車内放送での「マスク着用,窓開け,会話の制限」は同じ調子であり,駅での職員による窓開けもほとんど見られなくなっている。

 ドラマでは,鉄道警察官は「ああ,鉄警さんね」みたいに軽く見なされている。「所轄は引っ込んでろ」的な階層意識もあるようである。一方で,警察官としての訓練を受ける中で,自分の腕力などの能力を過信してしまい,一般市民に対する謙虚さを失う人も出てしまうのかもしれない。実際,凶悪な犯罪に遭遇する機会は,警察官でもそれほど頻繁に起きるわけではなく,自分の能力の使い方を誤って行き過ぎの対応をしてしまう可能性があることは,海外の警察の例では,過剰防衛で相手を死に至らしめてしまうケースも多く起きてしまっている。

 一方,同じくドラマでも描かれている機動捜査隊という都道府県警察の初動執行部隊は,街中を覆面パトロールカーで巡回して,事件現場にいち早く駆けつけて対応に当たる,という業務をしている。この「巡回」パトロールを電車やバスにも拡大できないかと思うのである。

 提案としては,鉄道警察隊の要員増強による電車車両内パトロールの強化,あるいは機動捜査隊の巡回範囲を電車車内にまで拡大する,などの業務拡大によって,未然に事件発生を抑え,また事件が起きたときの初動をより早くして,被害の拡大を防ぐしかないのではないか。

 日本は,いい加減に平和ボケとおさらばした方がいいと思うのだが,相変わらず無防備で派手な格好で,そして周囲のことも配慮せずに歩き回っている人々を見るにつけ,これがコロナ禍を日本で収束できない最大のバカ国民だと思えるのである。

イギリス・エリザベス女王の訃報--安倍昭恵夫人は国葬を辞退した方が潔いと思う

2022年9月8日 イギリスのエリザベス女王の訃報が入った。2日前に、新しいトラス首相の任命をしたばかりだったので、さすがに驚いた。96歳とのことである。

   エリザベス女王の葬儀は、国を挙げて行われるだろうことに、おそらく異論はないだろう。国家元首でもあるからである。

   一方、旧ソビエト連邦ゴルバチョフ元書記長も、2022年8月30日に91歳で亡くなった。こちらも、西側諸国からは東西冷戦を終結させた功労者と思われているのだが、当のソ連では西側に屈したと捉える国民も多く、裏切り者と考えられている。葬儀もひっそりと執り行われた。

   日本の安部晋三元首相の暗殺は、確かに衝撃的だったが、ここに来て、本当に国葬に相応しいのかどうか、再検討すべきではないか。

   正直、上皇様、上皇后様も、体調万全ではない。もちろんさらに長生きはいていただきたいが、そこは人の寿命でもある。いつまでも生きられる訳ではない。日本は、元元首、元元首夫人のために、国葬枠をキープしておいた方がいいのではないか。

   現実、筆者の周りにも安部国葬に大賛成と公言して憚らない人がいる。ネット上では税金を使いたくないのなら私費を出すから国葬にしろというトンでも輩もいる(単なる売名行為であることは明白である)。個別に業績を見れば、主張も理解できなくはないが、今度は安倍晋三氏の業績を世界のレベルで見たときに、「今、国葬にすべきなのか」と考え直すいいチャンスだと思うのである。

   国民の半数が、そもそも国葬に反対している。葬儀費用も曖昧である。他国の要人はアメリカのハリス副大統領とカナダのトルドー首相だけである。おそらく、エリザベス女王の葬儀には岸田首相も含めて主要国のトップが参列するだろう。それを踏まえても、安倍氏の葬儀は国葬扱いにしないのが妥当な考え方だと思うのである。

   アメリカ大統領でも、すべて国葬になるわけではない。トランプ元大統領なら国葬支持者が半数を超えるだろうが、それでも国葬にはならないと思うのである。

    エリザベス女王に敬意を払い、内輪だけの葬儀でもいいではないか。ここは、昭恵夫人国葬を辞退するという決断をすべきではないか。その方が格好いいと思う。

   

自民党国会議員の半数が旧統一教会と関係--議員こそ税金だけで政治活動すべきと改めて思う

旧統一教会、179人が接点 自民、萩生田・山際氏ら121人氏名公表―岸田首相「今後は関係持たず」:時事ドットコム (jiji.com)自民党国会議員379人のうち,関係のあった議員の数と,その内訳の議員名が公表された。

 筆者は,両者の癒着が最大派閥の安倍派が中心と見て,自民党国会議員の1/3が関係があるだろうと見ていた 自民党がついに崩壊か--最大派閥の安倍派(清和会)の旧統一教会との癒着 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/9/2。しかし全議員のほぼ1/2が何らかの関係があったという数字は,かなりショックだった。筆者の地元議員も含まれていたことにも驚いた。

 筆者は中学生のころ,将来の仕事として「政治家」と書いていた。日本をより良い方向に向かわせるのに,政治の世界は魅力的に見えたからだ。しかし,政治家には,地盤(地域),看板(肩書),カバン(カネ)が必要ということを知り,清貧をモットーとする自分には合わないと思った。その後,モノづくりでの日本発展を目指して工学部に入り,さらにペンの力を信じてマスコミの道に進んだ。現在は,日本の教育問題について考えをまとめつつある。

 政治にカネは必要だが,それは税金で運用すべきだし,議員の活動は議員報酬だけで進められるべきではないか。その看板に群がるさまざまな団体とつながることで利害関係ができ,それは「利益相反」になるのではないか。

 政治家が私欲を肥やしているのを見るにつけ,「落選したらタダの人」ではなく,きちんと自分の仕事を持った上で政治活動をするべきかなと思ったりする。政治家が「専門職」であってはならないと思う。

台風11号の進路予測が正確だった件--スーパー台風が今後どんどん発生するのが不安

2022/9/4 大型で強い台風11号が、沖縄の南を北上している。速度が時速15kmと遅く、被害か長引かなければいいと願っている。

  この台風の進路は、極めて異常だった。小笠原諸島から西に進み、さらにだんだん南寄りに下がって、日本本土から遠ざかって行くように見えた。「もっと南寄りに進んで、グルッと回ってから北上するんじやないか?」と素人的に予測をしていた。

   ところが、台風の進路は気象庁などが予想したのとほぼ同じく、南に曲がったところで折り返して、今度は北上するという動きを取っている。北上を始めるタイミングも予報どおりである。

 9/6になって日本海に入り,北海道の西で温帯低気圧になった。

2022/9/6/12:00時点の実況(気象庁より)

 

 当初スーパー台風とも呼ばれ,スピードも遅いことから広範囲で大規模な被害が予想されたが,幸い日本本土への直撃は免れた。ラッキーだったと言うしかないのだろう。しかし,海水温の上昇傾向が続いており,超大型台風の襲来が今後も予想される。

 日頃から筆者は,天気予報がいつまで経っても当たらない,と文句ばかり言っているが,今回の台風進路予測も含めて,極めて予測精度は上がっているのを実感した。実際,15分置きの天気予測など,かつては不可能だったことを考えると,すばらしい成果だと思う。改めてその努力を称賛したい。

 筆者は,カオス的な天気状況を定義してみた 「環状不安定パターン」という定義をしてみる--日本海から太平洋を丸で囲うと答えが出てくる - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/7/19。今回の台風11号でもこの日本全体を覆う環状パターンを刺激して,台風が来る前から各地で大雨になるのではないかと予想していた。実際,北海道を中心に,台風からはるか遠くで大雨になったが,環状パターンの中心は刺激を受けなかったというのはラッキーだった。

 筆者は,今週からまた1ヶ月ぶりに通常勤務に戻した。今週は台風の影響で通勤が大変だなと思っていたので,これもラッキーだった。筆者は基本的にいつも折り畳み傘を持ち歩いている。40年前からずっとである。最近は,耐風性能の高いモデルと入れ替えている。歩く距離は基本的に短いので,傘だけで雨を防ぐ形だが,本当はレインコートも欲しい。しかしレインコートが要るような雨だと,傘だけでは脚や身体が結構濡れてしまう。建物に入ってからレインコートを脱いで濡れを処理するというのが,今1つスマートではないのが悩みである。周りの人にも何となく迷惑をかけているのが気が引ける。まだ使ってはいないが,身体の前半分を覆う防水エプロンを準備している。ゲリラ豪雨に見舞われ,どうしてもその中を移動しなければならない,という場合の非常用である。あまり格好がいいものではないことは理解しているので,使用報告はなかなかできないが,1つのアイディアとして提案しておきたい。筆者はとにかく,雨に濡れることが嫌いなのである。

肩,脚の付け根の不定愁訴が消えた--今度こそ,この感覚は本物らしい

筆者の肩凝りや脚の軽度のマヒについては何度かレポートしてきた 抜けた記念日--2022/7/23の朝,左肩の凝り,左脚の腱の不定愁訴がフッと消えた日 - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2022/7/23。しかし,今度こそ、今度こそと何度も揺り戻しがあった。昨日2022/9/4、帰宅の歩行中、歩きの重心がこれまでのやや左寄りだったものが初めて右に移り、左脚が自由に動いている感覚を得た。

   おっ、と思って、重心を中心に置き直し、そして歩みに従って左右に交互に動かしながら歩いてみたところ、左右の歩みがほぼ同じようになった。これが普通の人の歩き方なのかな、と実感した。

   その夜,寝ようとして布団に入ると,いつもの肩凝りや左脚の付け根にこれまであった嫌な感じ,不定愁訴がまったくなくなっていた。これまでは,その不定愁訴の箇所を叩くなどの刺激を与えると,脚全体に響いたのだが,今回はその響きもなくなった。

 翌日,朝の通勤ウォーキングから快適だった。これまであまり頼りにできなかった左脚にしっかりと体重を乗せて歩くことができた。体重を掛けると,太ももの筋肉に張りが戻ってきた。やり過ぎるとまた筋肉を痛めそうだったのでほどほどにしたが,実に爽快な気分だった。

 これに伴い,足首も柔軟に動くようになった。さらに足の裏も部分部分に力を入れることができ,拇指球や足の外縁など,これまでむしろ体重を掛けないように気遣っていたところに体重を掛けても,身体を支えられることが分かった。拇指球で地面を蹴って,最後は指先で蹴るというような体重移動も意識してできるようになった。

 その後,不定愁訴が揺り戻さない状態が1日以上続いている。また,地面を蹴って歩くので,歩く速さも2割ほど上がったように感じる。今まで多少不安だった地面の凹凸も,足の裏で柔軟に受け止めている感覚があり,足首をくじくような気持ちが起きない。むしろ,足の外縁で体重を支えても,足首をくじくところまでいく前に体重をうまく分散しているのを感じる。

 ストレッチしても,これまではただ硬い筋がピンと張ってそれ以上はびくともしなかったが,じんわりと伸ばせるような感覚になっている。しばらくは,感覚を取り戻し始めた筋肉たちに大いに動いてもらい,体重をうまく分散させて歩く技を習得させたい。それから,これまでの課題であった開脚にようやく本格的に取り組めそうな段階がやってきたように思われる。苦節50年。「消えた記念日」とでもいうことにしようと思っている。運動を再開しようかという気持ちにもなっている。