jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

1人の命を考える

新型コロナウイルスの死亡者数は,現在,世界全体で1日5,000人に上る。日本では10人前後である。

 さまざまな事件や天災などの死亡者数が報道される。報道する側は,正確な数字を報道することが使命である。筆者の大先輩も,ある炭鉱爆発事故での死亡者数を報道する際,警察の発表を鵜呑みにせず,自分で数えて報道し,最終的に自分の報道した数字が正しかったことを自慢にしていた。情報が正確であることが,マスコミの報道では何よりも重要視されるからである。

 しかし,関係者からすれば,自分の知っている人,家族など,その人がいなくなることは100%か0%かという大きな問題である。人が一人亡くなるということは,その人を知る人にとっては掛け替えのないことである。

 就職をして東京に出てきてから30年。筆者の両親は関西にいて,最終的に親の死に目には会えなかった。看取ってあげることができなかった。両親とも,亡くなる間際は認知症で家族のこともわからない状態だったから,死に目に立ち会えたとしても理解してもらえなかったかもしれない。筆者も意外に冷静だった。

 今,我が家にはイヌが2匹いる。現在10歳である。人間でいうと60歳を越え,筆者よりも年寄りになりつつある。たぶん,筆者より先にあの世に旅立ってしまうと思うと,残念で,今の一瞬一瞬がものすごく大事に思えて仕方がない。ひょっとしたら,息子娘よりもスキンシップをしており,そのぬくもりを忘れることができない。「ペットロス」という言葉もあるように,死んでしまったら絶対に泣くだろうし,そのあとの立ち直りができるかどうかも自信がない状態である。

 命というのは,そういうものである。自分にとって大事な人やペットの命は,本当にゼロかイチかなのである。

 新型コロナウイルスによって亡くなる人が1日1,000人を超えるアメリカ。国土は広く,火葬の習慣がない同国は,土葬にするための墓地の用意が粛々と進められている。無造作に重機で規則正しく掘られた穴が並ぶ。死がとても冷静に受け入れられているような気がする。火葬で荼毘に伏し,祖先の墓に葬る日本とは,随分感じが違う。かつてペスト禍で亡くなったモーツァルトは,映画「アマデウス」の中で無造作に無縁墓地の穴に葬られるシーンが描かれていた。バックに流れる「レクイエム」が,この曲を聞くたびにこのシーンが目に浮かぶほど強烈だった。

 毎日のように,感染確認者数,重傷者数,死亡者数がニュースに流れる。今日は増えたとか昨日より減ったとか,一喜一憂する感覚が続いており,死に対する感覚がどんどんおかしくなってきている。現状は,世界中で毎日5,000人という人が亡くなっていることを,改めて認識する必要がある。身近な人の場合,1人の命は「1か100か」しかないのである。

 1人にとって,命も一つ,仕事も一つ,そして人間関係も「一つ」の積み重ねである。さまざまな数字を無機質的に報道するマスコミ,調査結果をいかにも法則を発見したかのように発表する民間調査会社や官公庁,そして専門家のコメントと称して誰でも言えるような一般論を発信する大学教授,それにたかるワイドショー関係者たち。それとさらに関係なく相場で金を稼ごうとする“投資家”。そしてパタッと声を聞かなくなった首相を筆頭とする政治家・・・。

 医療現場,介護現場,そして一般企業や家庭での実態とかけ離れた世界で第三者的にのうのうと生活している人たちが多くいる。実際,気持ちとして心配し,行動として自己規制している筆者も,現実と最終的に向き合っていないもどかしさを感じている。その場になったらうろたえることは目に見えている。あと10年以内にきっと別れることになるだろうウチのワンちゃんたちとの貴重な時間を過ごしながら,その日のことを考えると涙が浮かぶのである。