jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

マスクを付けない権利主張もヒトの多様性なのか

人によって常識の範囲やレベルが違う。生まれた国や宗教,自然環境,生まれた家の仕事,家族構成,経済環境によって,自分の考え方も周りへの見方もすべて変わってくる。

 これをある一定の範囲の“平均的な常識”を教えるのが「教育」なのだが,かつての教育と今の教育はまったく異なるように思える。「かつて」というのは,受験戦争華やかなりし20世紀一杯まで。画一的な教育がされていた。ところが,2001年以降の21世紀からは,教育がすっかり多様化した。画一的でトップダウンの一方的な「教える」教育から,「やりたいことを考える」教育に一変した。

 当然のことながら,やりたいことは人によってすべて異なる。やりたいことをどうやるかを考え,実践することで,正解という一つの答えがなくなった。あなたも正解,私も正解,という何でもあり,というのがアクティブ・ラーニングである。

 そして大学受験という点数制度では振り落とされるユニークな正解を持つ若者を導くためにAO入学という制度ができた。一発芸で入学する人も多くなった。

 受験命で勉強し,あるいは受験のテクニックを教えて偏差値を大幅に向上させて有名大学に送り込む受験産業による弊害もまだ残っているが,これについては別項でまとめたい。

 かつては,小中高と画一的な教育の中で学力差ができ,その点数で切り分けて大学への入試が成り立っていた。難関大学には「学力の高い人」が集まった。単にテストで点数が取れるとか,知識が豊富というだけでなく,自ら考える力のある人が目標の高い大学へと進んだ。同じように学力の高い人たちの集団の中で切磋琢磨され,自らの道を切り開いていった人を世の中に送り出すのが大学の役目だった。

 現在は,AO入学を含めて,多様な価値観の人が同じ空間に集まったのが大学である。学力も生き方もみんな違う。切磋琢磨しようという競争意識もない。周囲から刺激を受けることもなく,金儲けをしたり起業したりする人も多い。しかし,そもそも基礎知識や一般常識,一般社会常識を教えられることもなく大学まで来てしまったので,たとえば自分で勉強する力がなかったり,資料を探す力がなかったり,文章を書く力がなかったりする。考える力よりもテクニックを使いこなす力の方が優先される。研究者への道をたどるより,専門家の道をたどることが奨励される。まさに「大学の専門学校化」である。

 そしてその先は,実に多様な社会になってしまう。かつては目標とする職業が「軍人」という時代があり,次に「ビジネスマン」「会社員」「官僚」が日本を世界一の経済大国に押し上げた。

 21世紀になって,目標とするメジャーな職業がなくなってしまった。一時期,なりたい大人のNo.1がYouTuberという時期があった。お笑い芸人が完全に市民権を得た。そして,アニメやゲーム,クイズといったいわゆる“オタク”の世界が,世の中を席巻する時代になっている。1人1人が情報発信し,1人1人が個人で自分を売り込む。それに対して誰の制約もなく,気に入ったら気に入ったと意思表示した輪が広がって,突然,メジャーなテーマが持ち上がる。研究から開発,製品化まで何年もかかるモノづくりと違って,感性が合うかどうかの一瞬の判断で,メジャーになったりまったく浮上しなかったりする。ほとんどバクチの世界になったのではないかと思うのである。

 さて,まだこの多様性の中央付近にいる人たちは,振れ幅は過去よりも大きいものの,まだ筆者も許せる範囲にある人も多い。しかし,この現在の「教育」の振れ幅の外にある人は,正直言って同じ人間と思えないほど,理解に苦しむのである。

 人を殺すこと,人を脅すこと,人を騙すこと,人の物を奪うことを平気でできる人たちが理解できない。人という共同生活をする生き物の集まり同士,あるいはその中で人を協調できないことである。

 しかし,教育機会の差による権利主張については,まったく理解ができない。世界的なパンデミックになっている新型コロナウイルス蔓延の中で,マスクなしで大声で電車や航空機に乗る人の主張する“権利”や“常識”は,世の中では許せないものだと思うのが普通だが,犯罪行為ではないという主張や手出しをしたら訴訟するという主張は,「自己正当化」という精神的な疾患なのではないか。かといって,この主張を擁護するための法律家(弁護士)もまた存在する。弁護を受けるのは国民の権利だが,弁護すべきかどうかの判断も,社会側の権利としてあると思うのである。

 金持ちの家に育てば,お金があることが当たり前になる。政治家の家に育てば,周りにさまざまな人が集まる環境が当たり前になる。正直,金銭感覚や味覚感覚,対人感覚,向上心感覚などは環境に大きく影響され,画一的な教育ではもちろん完全に画一化することはできない。まして,多様性が重視されるようになった教育現場では,ある意味で自由な放置状態に近い状況が起きているのではないか。個性はたしかに大きく育つが,社会性や協調性が育たないのではないか,といった危惧を筆者は感じているし,東京大学ですら,入学した学生のまず教養教育をするために独自の教科書を作らなければならないほどだという。

 高度成長時代を終えた日本がどのような多様性を許される社会になるのか,正直言って不安である。国の第1党にも第2党にも,これはというリーダーがいない。世界一を名乗れる技術も産業も企業もない。国土が狭いため,すべて伸び伸びと育つ環境も準備できない。多様性を追い求めていては,どこかで衝突するのではないか。

 日本は八百万(やおよろず)の神の国だといわれているが,それは情報も人の行き来も限定的な時代の話である。現在のようにどこにいても携帯電話がつながり,不可能と言われたオンライン授業やテレワークも実現できる均一プラットフォームの世界で,匿名の誹謗中傷によって独自性が阻害され,すぐ隣でいじめやハラスメントが起こるような国で,伸び伸びと個性を伸ばす環境が作れるのだろうか。

 その多様性の権利を主張し保証するための法律を巡って,困難な議論が交わされている。すべての権利を法律で保証し,それを守らなかったら罰則を課すという社会はありえないのではないか。

 大義名分という名の「共通の常識の範囲」を定め,そこから広がりのある多様性については,「大義名分をベースとしての容認」とした方がいいのではないだろうか。

 「社会」という定義そのものが曖昧だが,その常識の範囲から外れるのが「反社会」である。命を維持できることが社会だとすると,命を維持できない状態は反社会と言えるのではないだろうか。すると,戦争は反社会的行為と位置づけられる。戦争を指導する人も戦争を実施している人も,結果として「他人の命を奪う」という意味からは反社会的行為である。

 他人のいるところではマスクを着用しよう,というのは,ワクチン接種や抗原検査体制が確立していない社会状態での世界的な常識になっている。それは,マスクを着用しないことによって他人への感染拡大のリスクがあるという反社会的行為だからである。

 緊急事態宣言の中で,飲食店や大型施設の営業時間短縮やアルコール提供の禁止が要請され,これに反した場合は罰則(科料)がされるという。これは,マスク着用拒否と同様,感染拡大のリスクがあるという反社会的行為であり,罰則があるのもうなづける。ならば,その店舗を利用した客側にも,罰則を課すべきだろう。

 同じように,利用者のマスク着用拒否に対して施設側(あるいは公共交通機関側)が入店(乗車)拒否をすることは大義名分がある。マスク着用を拒否する側が反社会的行為をしていると考えられる。ならば,ここにも罰則を設け,さらに取り締まり権限とその拘束行動の正当性,いわば正当防衛であることを施設側に与えるべきではないだろうか。

 多様性は,反社会的でなければ容認されるべきである。反社会的とは,他人に迷惑や危害が及ばないことである。公共交通機関は,多くの乗客を乗せている。1人の反社会的行為によって,他人が社会の中で命を維持するためのリスクが与えられるとすれば,その反社会的行為は抑止されるべきであり,その行使は公共交通機関が権限を持てるはずである。

 しかし,こういうことが起きないようにすべての公共交通機関の入場時の抗原検査とその証明があれば,マスクなし乗車も権利として認めてもいいと思っている 予算を抗原検査に集中しSUICA,PASMOで認証する仕組みに - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/5/30。