受験の季節である。受験生にはがんばってほしい。
ところで、大学に「合格」するとはどういうことかを改めて考えて見ると、おかしいことに気づいた。
そもそも、「合格」とは、資格に必要な力があることを証明することではないだろうか。すると、学科の定員分を上から採る、というのは、おかしいことになる。実力がある人はすべて合格すべきだし、定員に達しなくても、資格に値しない人は合格すべきではないのではないか。
資格試験はもう少し厳しい。知識に関しては、一定の得点を取らなければ合格しない。運転免許と同じである。
資格試験という意味では,司法試験が常に難関だとされている。毎年挑戦し,5年も6年もかけてでも「合格」を勝ち取ろうとする人も,いまだに結構いるように思われる。この世界では,司法試験合格の資格がなければ,事務作業しかできないからである。しかし,法律という基準も常に曖昧で,拡大解釈が問題になることも多い。法律の知識だけの勉強で,実社会の経験のない人が,他人の善悪を判断したり,さらに闇契約で法外な報酬を得ながら黒を白にすり替える場面も多々ある。筆者のような一般人,平民からすると,とても正義の味方とは思えない。
医師免許試験も難関であるらしい。しかし,現代社会で求められている緊急医療や感染症医療,産科,小児科など,肉体労働や危険な診療に携わろうとする人は減り,代わりに皮膚科,美容整形,心療内科など,命に関わらない医師を目指す人が多いという。この3年間の新型コロナウイルス禍で逃げ回っていた一般診療医は,2023年5月からは感染症五類指定に変わることでCOVID-19対応も迫られる。たまたま,第8波が収まりつつあるので安堵しているきらいがあるが,筆者は今後もインフルエンザと同様,延々と続くと想定しており,一般診療医がどう対応するかについてはじっくり見て行きたいと思っている。
もう1つの「格」としての「格式」というものも考える必要があるかもしれない。テレビ番組では「格付け」として一流芸能人、普通、二流、三流などと格を付ける。
番組では基本的に「知識」と「感覚」を試しているようである。特に食べ物は味が分かるかどうかがポイントとなるのだが,まあどうでもいいようなものである。
大学に「格式」を求めるかどうかだが,それも違うような気がする。もし大学に「格」を求めるなら,それは大学側の奢りであり,自意識過剰というべきだろう。
大学は,場を提供することで,学生が自分の感性を発揮して,自らの想像力で道を開くことができる。学習するのではなく,想像し創造するのが大学である。
今の大学は,ほぼ専門学校化している。テクニックだけ教え,資格試験に合格させることが目的となっている。これでは,20年後の日本を支える人材は育たない。
筆者は,大学には「入学認定」してほしいと思う。「あなたに来てほしい」と言ってあげてほしい。AO入試には賛否両論があるが,その人物をきちんと評価していると思う。もちろん,必要とされる学力や知力も必要だが,やはり「意欲」が欲しい。ただ,審査官は入学申請者の真実を見抜く力が求められる。