2024年の東京都知事選挙とその後も尾を引くドタバタ劇,そして広島高裁が性器の外観を変える手術をせず、性別の変更を認める決定を出した件(手術なしで性別変更認める 外観要件「違憲の疑い」―男性から女性に・広島高裁:時事ドットコム (jiji.com))と,今日2024/7/11のニュースサイトの半分はこの話題の関連記事ばかりだった。
正直言って,ウンザリである。
「生きる」権利として,「人は違ってみんないい」という意味での平等はあるだろう。しかし,能力的に差があるのに同等の扱い,同等の報酬を求めるのは,権利の乱用だと思うのである。
事実,同じ仕事をして同じアウトプットを出していて,男女で賃金差があるのなら,それは不平等である。もしスタート時の条件が同じで,同じ結果を出せているのなら,同じ報酬を得ることを主張してもいい。しかし,現時点ではまだ,採用の条件が異なるところから始まる。男社会が続いてきた中で,男性社員に対して期待するレベルは予測できるので,評価基準が存在する。これに対して,女性の仕事レベルの先例がないことが多いため,女性に期待するレベルの基準がない。男性の応募がないのなら女性の採用を考えるだろうが,男性の応募も相当数あれば,まず期待レベルから判断できる男性を優先的に採用するだろう。会社にとっては,人材採用は投資であるとともに「賭け」でもある。リスクは避けたいと考えるのが人情である。
女性に活躍の場が与えられるケースは2つある。1つはもちろん,自力で道を開くことである。放っておいてもポジションが与えられる男性に対して,人一倍努力することと,周囲からも上司からも認められる成果を上げるなど,組織内での立ち位置を自ら築けた時に道は開ける。もう1つは,たとえば在籍していた大学などからの強力な推薦と,その推薦を受け止めるための教員と企業のコネクションがあることである。企業とツーカーの間柄の中で,その人物の評価が保証となって伝わる。男子学生の場合ももちろんだが,女子学生が社会で突き進むためには,こうした後ろ盾が必要になる。資格を持つことも重要だが,それは看板の1つに過ぎない。
障害者雇用も,「生きる」権利を社会全体でシェアしていくことは重要である。しかし,同等の仕事と期待されるアウトプットが出せるかどうかは,健常者以上に条件は厳しい。同じ環境で仕事をすることで,全体最適化ができればいいが,効率が下がることになれば本末転倒である。適材適所を見つけることが重要になるが,そのポジションの報酬がほかと同じでなければならない,という理由は必ずしもあてはまらない。
性同一性障害の人の「生きる」権利は保証されていい。しかし,「社会」の中での位置づけを考えれば,自分以外の立場で考えれば,「性器という外観」が男性か女性かを判別する唯一の基準なのだから,男性器があれば「男性」と見られ,トイレや公衆浴場など,男女を分けている場所で「女性用」に立ち入ることはルール違反だと筆者は考える。これは,性犯罪,つまり男性から女性に対する性行為や公序良俗に反する行為の可能性を否定できないからである。
逆に,男性器が無ければ,基本的に性行為はできず,不同意性交という犯罪は発生しない。求めない妊娠に至る危険性もまず考えられない。もちろん,盗撮や痴漢行為などの犯罪の可能性は否定できないが,一般的に考えれば女性の身体を持って心は男性,という人があえて女性を苦しめる行動に出ることは想像しがたい。
したがって,筆者の考えは,心のあり方はともかく,男性器があれば男性として扱われることはやむを得ないので,トイレ,公衆浴場において女性であることを主張することはできない,と考える。逆に男性器がなければ女性として受け入れるべきだと考える。
男女共存社会において,「性犯罪の被害」という観点から見れば,男性に対して女性は弱い立場にある。したがって,女性はより保護されるべき立場にあると考えるのが,最低限の約束事だと思うのである。多様性を認めるにしても,その社会において醸成された一定の“常識”というバイアスは必要だと考える。
そうすると,東京都知事選挙に戻ると,社会の行政を担う立場に立とうという人が,個人の「自由」や「権利」を振り回してはならない,と感じたのである。
今回の候補者は,基本的にすべて「無所属」だった。政党の公認候補ではなく,「応援」を取り付けられた程度のサポートだった。「政治屋は要らない」「都政をリセット」など,現状の否定から始まった選挙の中で,相手否定ばかりが強調され,都民や社会をどう維持発展させるのか,という視点が欠けていた。当選したら,政策を立て,議会を動かすという「政治」を行わなければならない。その際,必要悪なのが政党というグループである。公認が得られなかったことで個人プレーになり,SNSを利用した喧伝が効果を上げた一方で,不用意な言動が物議を醸した。個人的には,普通の顔をしていない人物に見えたし,その後も社会人としての“常識”のバイアスから外れた言動が繰り返されている。メディアも話をして理解するだけでも大変なようである。
これまでの選挙では,政党がそれぞれの考えを実現するために候補を擁立するのが普通だった。日本の場合は,自民党という巨大組織と,野党という約10の政治組織が政権を争う構造だった。しかし2024年の東京都知事選は,組織が感じられず,個人プレーが目立ってしまったと感じる。政策論争がなく,人気投票みたいになり,これまでの政党選挙に飽きた浮動票が新機軸としての2位候補に集まった感じである。身勝手なスタンドプレーに何等かの現状批判の意味も込めて投票したのかもしれない。
個人プレーのために,元アナウンサー,元キャスター,元地方自治体市長,元自衛隊といった政策を期待できない有力候補が生み出された。つまり,かつての学者や作家は,裏に巨大な組織力を持っているのである。今回の候補はバックと成る政党が押さない個人戦になってしまい,基本は政策を期待できない。もし,2位,3位,4位,そして大量24人を投入した公序良俗のカケラもない行動を許してしまったのは,法律の裏を突いて「自由」と「権利」を振りかざした結果である。そこに「共同社会」や社会人としての「義務」意識が感じられないし,戦後の日本が醸成してきた政党政治という“常識”から外れてしまったことが,カオスを招いてしまった。自分個人,あるいは自分たちのスタンドプレーであり,社会常識,社会ルールという暗黙のバイアスから外れた行動だった。
これはもう政治ではない。多様性の権利をどんどん認めていった社会が,ルールというバイアスが崩れ,カオスを招いている。カオスでは組織をまとめることもできない。多様性ばかり尊重すると,組織も国も成り立たない。
結局は,この人なら世の中をいい方向に導いてくれる,という候補がなく,既存の政党政治がその候補者擁立という権利を放棄し,SNSを通じてのメッセージが単に新鮮に思えた無党派層が,これもただの「ノリ」で1票を投じてしまった可能性が高い。
国政でも,有力なリーダーとなりうる人がほとんど見当たらない。あまりにも器が小さい。東京都が惰性でどこまで勢いをキープできるのかも怪しい。
アメリカ大統領選挙も,国政そっちのけの個人批判合戦である。自国優先政策のトランプ元大統領を推す支持者は,自分の生活のことしか考えていない。アメリカは,世界の方向性を決める力を持っており,その代表を選ぶのだから,ここは投票拒否や白紙投票などで候補者に対する意志表示をすべきだと思う。
多様性は「カオス(混沌)」である。“常識”というバイアスが人によって多様ではルールは成り立たない。したがって国も滅びる。筆者の“常識”は墓場まで持っていくだけだが,唯一,浮上してきた上川陽子外務大臣に期待したいところである。そして選挙という国民の「権利」と「義務」をかき乱した今回の東京都知事選挙の候補者は,いわば選挙妨害をしたとし,二度と政治の土を踏ませないでいてほしい。