jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

CESショーに見る人類の“不幸な未来”--AIを「コンシューマー」に広げるべきではない

2025年1月8~11日,世界最大のエレクトロニクスショーであるCES(Consumer Electronics Show)がアメリカ・ラスベガスで開かれた。“エレクトロニクスショー”と名前があるとおり,家庭用の電化製品の新製品が紹介されてきた。CD(コンパクトディスク)やDVD,液晶テレビなど,家庭生活を便利にする製品が中心だった。

 2025年のCESは,もはや主役は「家電」ではなくなった感がある。製品という形ありきのモノから,AIに代表される頭脳を持ったシステムが主役となっている。

 頭脳といえばコンピュータ,パソコンがかつての主役だったが,computeつまり「プログラムによって計算する」のが主体で,人間が使いこなす相棒のような存在だった。現在,ブログを書いている筆者も,手で文字を書く代わりにパソコンがローマ字変換で熟語を表示している。このキーとこのキーを続けて押せばカナを意味し,そのカナが続いたところで変換キーを押せば単語になる,という仕組みをあらかじめプログラムしており,パソコンは筆者の指示どおりに動いてくれている,というわけである。

 しかし,AIという人工知能は,このプログラムを越えつつある。この1年で急速に発達した生成AIでは,プロンプトと呼ばれる文をAIが勝手に「解釈」して,AI独自の理屈に従って結果を出す。プロンプトを打ち込む作業は人間がするとしても,それがどのように解釈されるかはまったくブラックボックス化している。

 バイオテクノロジーや気象工学など,スーパーコンピュータレベルで大量の計算を高速でさせる分野では,出てきた結果に対して人間が「後づけ」で意味を加えて納得している。あるいは,そういう結果が出るように操作を加えている。処理のプロセスはプログラムで固定されているが,どのような結果が出るかは想像できない。次世代シークエンサーと呼ばれるようなDNA分析装置にしても,地球コンピュータという気象解析コンピュータにしても,計算された結果を見て判断するしかない。こちらも装置はすでにブラックボックス化しているのだが,まだ人間の解釈の余地が残されている。

 しかし,AIは人間の解釈を許さない。その答えが「正しい」と人間に思わせてしまう。文章,画像に加え,音声,動画までが,フェイクなコンテンツを次々に発信するようになっているからである。

 このような情報が「コンシューマー」つまり一般消費者の生活の中に入ってくることが,人類にとって幸福なのだろうか。

 科学技術は,ヒトという生き物が生み出した「夢を追いかけ,未知の世界を探求する」ための思考である。生物の起源は何か,地球の起源はどうなっているか,宇宙の始まり,宇宙の果てはどうなっているのか,太陽がいつまでも光っているのはなぜか,人類はどう進化してきたのか,などを探求する「科学(サイエンス)」がある。そしてこれを実現するために,望遠鏡を作り,コンピュータを作り,原子炉まで作ってきた「技術(テクノロジー)」がある。しかし,それらは人間がコントロールできる範囲に限られるべきである。

 ところが,バイオテクノロジーは生命をコントロールし,生命を複製し,その流れで行けば生命を創造する技術も登場するだろう。また,脳にコントローラを埋め込んで人間の機能を拡張したり,不老不死の生物を作り出すことも可能になりつつある。かつて「神」の領域に人間が着手している段階である。おそらく,研究室の中では密かに研究が進んでいる。新型コロナウイルスが,人類が創造した生物兵器だという見方がされているようにである。

 同様にAIも,現時点で公開されている生成AIのレベルを遥かに超越した機能を持つシステムが闇の世界ではすでに動いていると創造する。これも「神」の領域である。

 しかし,バイオテクノロジーがそれなりに医学,化学,生物学などの勉強をした研究者が,「倫理」の壁を認識した上で,その倫理を越える研究領域に「倫理ルールを意図的に無視して」立ち入って闇で研究しているのに対し,AIは倫理感を一切持たない金儲け主義のビジネスとして,多大な金を注ぎ込んで暴走している世界である。ちょうど,中国が太陽電池パネルを無制限に増産し,国内の砂漠地域の信じられないほど広大な場所に何百万パネルも設置している状況に極めて似ている。

 宇宙分野も同様である。かつてアメリカとソ連が競い合って人工衛星を打ち上げたことで,地球の周りには寿命を終えた人工衛星が「宇宙デブリ」として何万個も漂ったままだというのに,ここにさらに民間企業のスターリンクが数千個という通信衛星をバラまいたり,さらに日本のベンチャー企業までが手のひらに乗るような小型の人工衛星を打ち上げるビジネスを立ち上げつつある。「宇宙デブリをどう回収するか」などの議論をする前に,ビジネスが暴走している状態である。

 テレビ受像機を,モノクロのブラウン管時代から知っている筆者にとって,薄型の液晶テレビプラズマディスプレイ有機ELパネルへの進化は驚くべきものだった。それはテレビ・メディアからの情報が唯一だったからであり,より鮮明な画像,より大きな画像を受けたいという物理的な欲求が開発した技術の賜物である。

 しかし,いまやテレビからの情報は世の中の情報の1割以下になっている。インターネットを通じて配信される無秩序なコンテンツは,テレビ受像機ではなく,パソコンやスマートフォンなどで受け取るからである。もはや,テレビ受像機の新技術がCESショーで発表されても,だれも見向きもしない。テレビを見なくなっているからである。したがって,それに付属する録画装置としてのDVDやBlu-rayなども消えつつある。留守録をして後で視るのではなく,見逃し配信で後からでも視られるようにしてしまったからである。そうなると,リビングの大きなテレビでなくても,タブレットスマホでいつでも空き時間に視る形になる。テレビは不要になりつつある。

 常に情報を受け取ったり,発信できたりする環境が主流になりつつある。情報発信は,スマホに搭載したカメラとSNSですでにカオスな状態にある。一方,情報の受信については,ARメガネの今後の動向が注目される。情報発信は,イベントの発生が突発的なのに対し,情報受信は「常に」稼働している必要があるからである。現実と仮想情報を高精度にミックスして視覚に伝達できる装置として,Apple Vision Proは1つの行き着く基準を示した。この技術をどう小型化してコンシューマーが使える仕組みにできるかどうかは,技術開発のレベルになっている。現在は,ブサイクな黒縁メガネやサングラスタイプでの開発が主流だが,いずれかつて夢物語と思われたコンタクトレンズタイプのメガネや,場合によっては眼球内に埋め込むような技術も実現するかもしれない。

 最終的に,人にとって必要な情報が適切に受信でき,その情報を人が判断して行動できるような仕組みが望ましいと,筆者は考える。すでに何度か書いているが,筆者は魂の半分をコンピュータに売り渡して,二人三脚で生きているが,これを全面的にコンピュータに任せるつもりはまったくない。あくまでも主体は自分であると思っている。したがって,自分でコントロールできないAIには手を出さない。クルマの自動運転もまっぴらごめんである。もちろん,地に足が着かない宇宙旅行もしない(飛行機も苦手だし,熱気球もバンジージャンプも絶対にしない。ましてスカイダイビングもごめんである)。

 CESがもう一度,“コンシューマー”向けの楽しい技術発表のショーに戻ってもらいたいと思った次第である。