jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「国民感覚」は平均化できない--やるべき時は英断が必要

世の中には,本当にいろいろな感覚の人間がいるものだなと,感心してしまう。まあ,善人もいれば悪人もいるわけで,脳が発達した分,さまざまなダイバーシティに広がってしまっているのだろう。正義感の強い人もいれば,おカネにしか関心のない人もいる。感覚の赴くままに性犯罪を起こす人もいれば,それを犯罪と思わない人もいる。

 「暗黙の了解」などという都合のいい言葉もある。合意があったと勝手に判断して被害に遭うこともある。世の中,何が起こるか,正直言って分からない。

 東京都のCOVID-19感染については,医療の専門家から「制御不能、自分の身は自分で守る段階」と言われてしまった。つまり,東京都民およびその周辺県の住民は,医療から「見放された」ことを意味する。すでに政治からは見放されていることに加え,医療からも見放された。

 人流を抑制するために,政治は「不要不急の外出をやめてください」とお願いし,「外出を50%減らしてください」とお願いしている。警察も自衛隊も動員しない。国民のだれかが外出するなら,その人が悪い,と決めるのは,国権でも官憲でもなく,国民自身だ,と言い放っている。まさに政治の放棄である。本来なら,行政立法や,国会を動かして議員立法で,強権発動すべきところであるが,国会議員は政府を批判するだけ,政府は国民を批判するだけ。結局,まったくの放置国家になっている状態である。

 2020年のGW付近の第1回緊急事態宣言の際,筆者は当然のことながらテレワーク体制を取っていたが,どうしても要出社の業務がある際,駅や街中で都の職員や警察に行動についての質問を受けた際の答えを用意して,覚悟の上での出社をしていた。場合によっては,その理由が承認されず,都内に入ることができないかもしれない,という緊張感があった。実際にはそのようなチェックは行われなかったが,行動制限を求められている中での行動だけに,後ろめたさは残っていた。

 この第1回の緊急事態宣言の当時でも,正直言って筆者のような緊張感を持って行動していた人は,おそらく1000人に1人もいなかったと想像する。少なくとも,同じ会社に出社していた他の社員も感じていなかったし,そもそもリーダーである社長に危機感がまったくなかった,という驚きがあった。

 現在,第5回目のバラバラな緊急事態宣言の中で,当時の人出に比べて10倍以上がノーガードで人流を作っている。筆者のように,ワクチンの2回接種完了者であっても第1回当時よりもマスクを二重にするなど対策を強化している人は,ほとんどいないのではないか。何しろ,街中で平気でインタビューに答えている人たちが何十人もいることを考えると,恐ろしい。インタビューに答えるということは,そこに外出して存在するということが世間的に認識されても平気だ,という意味だからである。「たまたま外出してました」というコメントに「お前が人流を作っているんじゃないか」と突っ込みを入れたくなる。筆者なら,インタビューアーが近づいてきたら,慌てて逃げるだろう。

 メディアには「平均的国民感覚とずれている」といった表現があるが,そもそも国民感覚の平均化などできるはずがない。オリンピックについても,筆者のように基本的に開催反対,開催するなら無観客で,オールデジタルで,と言っている人から,絶対反対と思っている人,開催賛成と言っている人まで,多様である。

 一方で,野党議員も,知事くずれの学者や評論家も,別の地平からコメントする学者も,そして,庶民代表として登場するタレントコメンテーターなどの言葉が,SNSやニュースサイトで繰り返し引用されるものだから,これが「平均的国民感覚」の代表のように拡散してしまう怖さがある。相変わらず,批判にしかなっておらず,建設的な提案を聞いたことがない。

 こういうときこそ,zoom国会を招集し,自宅からでも事務所からでも参加させて,行政立法の承諾,あるいは議員立法の立案を速やかに進めるべきではないのか。いつまで遊んでいるつもりだ,と言いたい。しかし,妙案は出てこないのだろう。国民はもう見捨てられたのかもしれない。我が家は引き続きStay Homeなのだが - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/6/10 に予測した「最悪のシナリオ」をたどりつつある。