jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

予備校の「こうして合格」CM は“品質保証の偽装”では--失敗例は語られない

会社経営でも,研究発表でも,何でも「成功談」はまとめやすい。それは,成功したという事実があるために,それまでの経緯やエピソードを後づけで解説して,辻褄が合うからである。

 一方で,「失敗談」はなかなか表には出てこない。よく言われる成功は「せんみつ」(1000のうち3つ)で,ほとんどが失敗の連続である。失敗の原因はさらに多岐にわたり,解説しようがない。

 試験の合格にしても,100%完璧に準備して,予想問題が的中したとしても,間違うことはある。勘違いしていたとか,途中を飛ばしたとか,時間配分を間違えたとか,いろんな原因はあるだろうが,結果は「不合格」ということもないわけではない。

 予備校の門前に,昨年度の合格者の名前が貼り出されていたり,◯◯大学合格数日本一などという文言が飛び交う。実際に,予備校の指導を受けて理解が深まり,試験合格のための実力を付けて合格した人も確かにいるだろう。しかし,いくら指導してもその大学に合格できる実力に達していないと判断したなら,志望校を変更させるという指導が行われ,結果として◯◯大学の合格者数は一定以上に確保できることになる。しかし実際に◯◯大学を受けて合格しなかった人のことには一切触れられない。おそらく別の大学の合格者数の中に含まれてしまうだけだろう。

 「こうして合格しました」的な成功談は,いくらでも書けるし,実際そういう指導が行われ,本人も努力して実力を上げたことも確かだろう。しかしそれは合格した本人だけの問題であり,同じ指導を受けても合格できなかった人のことは表には出てこない。

 CMだから,余計なことを書けないということもあるだろう。しかし,そのCMが予備校の「品質保証」のように伝えられる実態は,問題があるように感じる。

 昨今のタレント予備校講師の言葉を聞くと,胡散臭く聞こえる。自分はすでに安全な立場にあり,生徒がどう進むかまで責任は取らないはずだからである。

 たしかに,医療でも「この治療をおこなっても100%治るとは限りませんよ」と言われれば,別の病院に転院するかもしれない。医者は病気回復の手助けをするが,最終的に回復させるのは患者の回復力に任されている部分はある。

 どうように勉強も,最終的には生徒がどこまで集中して取り組むかが鍵を握るのだろう。そのやる気を引き出せるかどうかが,「先生」の実力なのだと思う。

 講師のパフォーマンスを見るのも嫌だし,生徒の合格体験談を聞くのも嫌である。結局,そうやって◯◯大学に合格した後,どのように活躍したかについてのストーリーが一切語られないからである。

 「やってて良かった◯◯式」は,あらゆる場面で生きてくる。すべての経験・学習・知識は,何らかの役に立つからである。筆者の場合はボーイスカウト活動だと言えるし,浪人して予備校で勉強したことも糧にはなっていると思う。学習方法を指導され,それに基づいて努力した結果であれば,後から何とでも言えるのである。

 学生時代のアルバイトが役に立った,株式投資で一時は損を出したがその後大儲けした,といった話もよく聞く。しかし,高額バイトで犯罪につながったり,欲望の赴くままに行動して犯罪を犯したり,目先の利益のために偽装したり,といったこともある。これらはもう人生の汚点となってしまい,経験にはならない。そこに進む前の理性が必要である。

 大学入試での失敗や浪人の経験は,筆者の時代には許されていたが,今は「何が何でも現役合格」的な風潮が強すぎるような気がする。浪人すれば親に負担がかかるし,卒業後の就職活動でも何かと足を引っ張られるのかもしれない。しかし,1社に定年まで勤めるといった風潮もなくなり,転職を繰り返してキャリアアップを図る人生も問題なくなってきている現在,世の中は失敗により寛容になっているような気もする。

 そもそも,大学入試がゴールみたいな風潮が相変わらずあり,そのため難関大学に合格することが人生の最終目標のような言い方をすること自体がおかしいと思っている。大学に入ったなら,そこで何をするか,自分の人生の方向はどこかを,ゆっくり考える時間であってほしいと思うのだが,今や教養課程がなくなり,いきなり1年生から専門教育が始まると聞いて,酷だなと思ったりする。結局は,「◯◯大学入学・卒業」という看板を背負ったタレント輩出につながっているだけなのではないかと思ってしまう。予備校が,大学合格を最終目標のような言い方をすることは,やめてもらいたい。