親は選べない,という意味で「親ガチャ」という言葉が急に表に出てきた。
ガチャはカプセルトイであり,歴史的には1970年ごろに全国に広がったとのこと。筆者にはガチャポンという言い方の方が馴染みがある。とはいえ,昔からくじ引きや抽選で当たったことはなく,ガチャポンもハズレアイテムしか出たことがなく,数回しか買ったことがない。
子どもにとって親は「基本的にハズレ」ではないだろうか。「親ガチャ」でハズレと思っている子どもが,金持ちの家か貧乏人の家かでアタリ,ハズレを言っているだけのような議論がされている。正直言って,そんな単純な話ではないはずだが,枠に当てはめて報道するバカな社員コメンテーターもいたものだし,自分だけが不幸を背負ったみたいに語る不満足評論家もいる。
おカネがあって地位もある家に生まれることが幸せとは限らない。もちろん,そのカネと地位を利用して何不自由なく生活することは,欲望を満たすという意味では幸せかもしれない。しかし,毎日贅沢な食事をして,次々にブランドモノを買って,生活は充実しているかもしれないが,周りに集まるのはそのカネや地位を利用しようとするトリマキだけとなり,心の友などができないかもしれない。贅沢ばかりして生活習慣病になって早死にするかもしれない。病院の特別室に入れるのが特典かもしれないが。
家庭が貧乏だったら,人一倍努力して勝つしかない。その勉強の機会が与えられないことがあれば不公平である。ヤングケアラーのように親の面倒をみなければならない家庭や,DV(家庭内暴力)などのある家庭,非社会的な仕事をしている家庭など。これはもう不幸と呼ぶしかないかもしれない。
親は,反面教師とすべき存在である。親のしていることが素晴らしいと思える人は,それはそれでいいし,嫌だなと思ったら親を越える,あるいは別の道を生きる,というのが人生の醍醐味である。
しかし,商売で伝統を守ってきた家庭では,その伝統を受け継ぐことを強要される場合もある。伝統でもないが,医者や政治家などは,とかく自分の子どもに家を継がせようという気持ちが強く,それに乗ってしまうのが楽な道の場合もある。
正直厄介なのが,華族,皇族などの家に生まれた場合である。これはもう運命として受け入れるしかないというのが一般的である。何しろ,存在そのものが公的だからである。何不自由なく育ち,おカネの心配も就職の心配もない。その代わり選択肢がない。確かにこれはキツイ。筆者も昔は,今の陛下に似ていると言われたものだが,天皇家などに生まれなくて幸せだったとつくづく思う。
男性皇族は,敢えてトップ教育を受けて自分の生きる道を受け入れる場合が多い。逆に女性皇族は,一般人と結婚すれば皇族を捨てなければならない。しかしそれで自由になれるわけではなく,皇族としての責任は一生付きまとう。ならば皇族が許容する範囲の中で生きなければならないということは自覚しなければならないのではないか。
秋篠宮眞子親王や佳子親王が親に反発して,一般論からしてもあまり望ましくないと思われる結婚に突き進むのは,まさに親ガチャである。しかし,華族・皇族の家庭に生まれてくることは,同じガチャでも最初から紫色の特別仕様のガチャである。一般庶民からすれば,もう少し自分の立場を考えて大人としての振る舞いをしてほしいと思うのである。欲しいオモチャの前でダダをこねるガキのようにしか見えない。立場を代わろうという気は毛頭ないが,自分の置かれた運命の中で,何をすべきなのかもう一度考え直してほしい。眞子さま,目をお覚ましください・・・ - jeyseni's diary 2021/9/2。
みんな,自分が生まれてくる家を選ぶことはできない。それは運命である。その運命をどう受け止めるか,あるいは乗り越えるか,それこそが人生である。口に出してしまったら,それは単なる愚痴である。SNSという誰でもなんでも言える環境ができてしまったために,こんな言葉が世の中で使われるようになったのは,まさに今の時代らしい。だが,「口に出しちゃオシマイよ」。乗り越えるチャンスを探す,それも人生の醍醐味だと思う。チャンスは与えられるかもしれないが,自分で切り開くのもまた人生である。妙なリツイートにウツツを抜かす前に,「オレならこう考える」「私ならこれを試してみる」という不言実行が美しいと思うのである。