駅でもテレビでも、「〇〇はおやめください」「ルールを守りましょう」と連日のように、いや、繰り返し繰り返しアナウンスがある。
一方で、Bluetoothのイヤホンを装着している人は全員の半数以上だろう。しかもその半分はゲームに集中して音を大きくしている。アナウンスを認識している人も「ああ、またか」と聞き流している。
モノを買っても、マニュアルの注意書を読む人はほとんどいない。マニュアルを開くことすらない。
筆者は、買うものが興味あるものなので、どういう使い方をするかをマニュアルで見るのはもちろんなのだが、それでも最初の注意書は斜めに飛ばすことも多い。一般的なこと、例えば水に濡れた手で触らない、などは当たり前と思ってしまうからだ。それでもこの注意書を書いておかないと、製品の場合はPL法に触れるから仕方なく、あるいは紛争を避けるために書かざるを得ない。
新型コロナウイルスの抗原検査キットでも、検査結果が認められるのは薬局で薬剤師の説明を受けて購入したものに限られる。結局、検査の充実で感染拡大を防ぐという本来の目的が実現されることなく、2億セットもの大量廃棄がされることになる。
日本人は、他人の言うことを聞かない。ダメと言われても否定するし、受け入れない。考えようともしない。
海外では、聖書やコーランなど、宗教による基本的なルールがあり、多くの人がまずその教えを学ぶ。学ぶと言っても、別に自分で読む前に、親が家庭で普通に子どもに伝える。
学校では、国歌の斉唱がある。そうして国への帰属意識が自然に身に付いていく。
日本は戦後、「自由」という言葉を「自分勝手」と勝手に読み替えてしまった。家庭でも学校でも、勝手がまかり通る。そこにいくらルールを作っても、もはや受け入れる態勢にない。注意を連呼せざるを得ない状態になっている。
それでも海外から見ると、列の割り込みがない日本人はすごい、ということになっている。いやいや、ただ1本の動画が繰り返し再生されているだけである。
家庭でも、親がまず、拠り所となる基準を知らない。核家族で祖父母からの伝授がないことも大きな要因である。子どもはテレビ、アニメ、ゲーム、そして個人的情報発信ばかりのスマホを基準にしてしまう。家庭がまず、ルール崩壊している。
小学生になれば、もはや手遅れである。親はやっと自分が育児から離れ、学校に責任を転嫁する。無秩序の家庭で育った子どもをルールで縛っても、もはや元には戻らない。先生は本来の教育以外にシツケもしなければならず、過剰労働になり、学校崩壊につながっている。
そこに、現場を知らない役人がICTだプログラム教育だ英語だと枠組みだけ作っていい気になっている。教員も非正規の1年契約教員が3割を超えているという。学校はもはや教育の場ではなくなってきているのである。
基本的なシツケがなければ、人はただの「ヒト」という生物である。知性はあるが理性がなく、協調性もないただの野獣である。
昔の通信簿には、その子の性格を評価する欄があったように思う。積極性、協調性、独創性、などである。筆者は協調性は常に満点だったと思う。もし、今の子どもたちを評価するとすれば、「個人的」といった項目を作らないとすべての項目が0点になってしまう。「個人的」ならば満点である。そしてこれを「個性的」と読み替えて評価すれば傷つけないかもしれない。しかし、学校側がそんな人物評価なとすれば、今は大変な事件になってしまうのだろう。そこがそもそもおかしいのだが、残念ながらもう後戻りできないのかもしれない。
社会人になって初めてマナーを学んだ人も多いだろう。そもそもマナーを大人に教える仕事が成り立つこと自体がすでに異常である。結局、教えて直らなくても責任は取らない。
家庭の親、学校の先生、それぞれが基準を失っている。戦前までは天皇崇拝という基準があったのだろう。戦後はマネー崇拝になってしまったのだろう。しかしその強かった円は今やボロボロである。海外マネー、仮想通貨、そしてメタバースと進めば、日本は確実に崩壊する。「貯蓄から投資へ」という岸田発言は、国の責任を放棄したということである。せっかく投資で稼がせても、それを税金で取り立てる方法がないからである。まず輸出できる品物を作れる日本を構築しなければ、本当に国としての日本は崩壊する。