歩きスマホはなくならない--ネコにマタタビ - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/10/27 と書いて,自分に向かってくる人の行動パターンをカメラで捉えてAIで解析・予測して,ぶつからない進路を割り出す機能を提案した。しかし,スマホ歩きしていなくても,なぜか人とぶつかりそうになる。
年配の方は,視力が落ちていたり,足元がふらつくこともあって,歩道の端を歩くのが怖いようで,歩道の中央を歩かれることも多いようだ。腰が曲がっている場合は,うつ向き加減になるので,さらに前が見にくくなる。筆者もいずれはこうなるのかな,と思いながら,道を譲るようにしている。
しかし,若い人でも,歩道の中央を堂々と歩いている場合が多い。一般に歩道は,人が3人ぐらいは並べるだけの幅があるので,仮に真ん中を歩いていても,その両脇をすり抜ければぶつかることはない。しかし,スマホ歩きをしている場合はもちろん,普通に歩いているときでも,中央から右や左にフラフラと進路を変えて歩かれると,すり抜けようとしてもぶつかってしまう。
歩行者も左側通行に統一しませんか--衝突回避のために - jeyseni's diary (hatenablog.com) 2021/12/20 とも提案しているのだが,どうも人間がそういう行動を取らない生物に“進化”したのではないかと思えるフシがある。
筆者はビビリなので,信号が青に変わっても左右を確認してから前に出る。歩行中でもクルマでも同じである。対向車(者)があればスピードを下げ,万一ぶつかっても双方の被害が最小になるように気をつける。
この行動パターンは,おそらく幼児のころから躾けられた「信号では右を見て,左を見て,もう一度右を見て」というパターンが染み付いているからだと感じる。自分の身を守るため,相手に被害を与えないための当たり前の行動パターンだと思っている。
ほかにも,「お年寄りには席を譲りましょう」とか「咳やくしゃみのときは手で口を覆いましょう」とか「ゴミは家に持ち帰りましょう」とかも,当たり前の行動パターンと思っているのだが,どうも当たり前と感じていない,あるいはその行動パターンそのものを知らない人が多いように思える。
筆者は戦後世代だが,両親は戦前,しかも昭和より前の年代なので,この行動パターンが当たり前と思い込んでいるのだが,おそらく親が戦後の豊かな時期に育った場合,その子どもへの躾けも甘くなっているのかもしれない。さらに,2000年以降の経済停滞期に育った人たちは,人のことなど構っていられない,自分が生きるだけで精一杯,といった思いがどこかにあるのかもしれない。
電車の乗り降りで通路をあけずにトビラの正面に立って平気な人も多い。左右どころか正面も見ていない,あるいは意識の中にない,ということなのだろうか。
筆者の時代は「核家族」と呼ばれ,おじいちゃん,おばあちゃんを知らずに育った。サラリーマン家庭なので,オヤジとの接点は少なかった。ただ両親とも古い人間なので,カチッとした性格に育ってしまったのかもしれない。規律も重んじるボーイスカウト活動に10年以上も参加していたことも,自分の性格を決める大きな要素になっていると感じる。本当は,おじいちゃん,おばあちゃんとの3世代家族が,育児や躾けなどの点では理想だと思うのだが,それが親子だけの核家族となり,さらに両親共働きとなって子どもだけで過ごす時間が増えたことで,躾けをするという機会が減っているのかもしれない。さらに子どもの勝手な行動にガマンできない親が,子どもを虐待する,あるいは夫からのDVを受けた妻が,その矛先を子どもに向けるという,悪循環に陥っているようにも思える。
最近の教育は,「褒める」ことでやる気と能力を伸ばすことが大事と言われている。それはもちろん大切なのだが,社会生活の中で相手と譲り合って,それぞれがバランスのある環境をお互いに作っていくという気持ちを育てることも大事なのだが,幼児期の教育が,親にとっても難しく,さらに幼稚園・保育園・学童などでも限度がある中で,次の世代はどのように活躍してくれるのか,やや心配な面もある。
ただ,戦後は大学進学から大手企業への就職,定年まで働き上げる,といった人生が成功パターンだったが,現在は若い人が新しい発想で起業し,それを支える側にも新しい動きが出ている。この辺りの動きに期待したいと思っている。
年寄りの暴走事故,中年のハラスメントがいずれ一掃されて,「自分で考える」というより創造的な社会に進化していってもらいたいものである。