新年の経済界の仕事始めは大発会である。そこに振袖を着た女性が目を引く。「お飾りではない」との反論がある。これは死活問題「大発会の振袖なぜだめなのか問題」を考えてみた | 大賀屋呉服店7代目「いいきものがかり日記」。2021年1月5日のAmebaブログに,呉服屋の主人から意見が寄せられていた。発端は2021年の中日新聞の記事のようである。
「形骸化しているが,振袖は未婚女性の正装である」「正式な祝いの場に正装を着るのは当然」というのが正論だと主張する。なるほど,一理ある。
振袖と言えば,成人式には多くの女性が着る。現在ではほとんどがレンタルである。自前の振袖を持っている人は少ない。同様に,男性の正装である羽織袴やモーニングも,自前ではまず持ち合わせていない。大発会に正装で現れる男性はまずいない。したがって,振袖だけが目立ち,形式的に,また華やかさを演出するために,振袖姿を求めることになり,それが性差別であったり,男女不平等という議論につながる。
時代はユニセックスに向かっている。同性同士の結婚を求める動きがある一方で,結婚はしない,子供も要らないという若者も増えており,日本の人口は明らかな減少傾向にある。結婚式を挙げるカップルは,総じて平凡な家庭をイメージし,男性の「家」に「嫁」として入る形を取る。白無垢,純白のウェディングドレスが好まれる理由である。この形では,男女別姓問題もほとんど発生しないはずだが,ダブルインカムになれば女性も元の姓で仕事を続けることになるだろう。ただそうなると,ウェディングドレスというのがイメージと違ってくる。
筆者は男兄弟しかおらず,裕福でもなかったので,正装する機会はなかったに等しい。中学生のときは学生服で祝い事に参加したし,成人式は都合で出なかった。社会人になってからはダークスーツを1着用意し,冠婚葬祭はすべて同じ服装だった。結婚式でも羽織袴以外は黒のスーツで通した。服装で自分を表現したくないからである。
大発会が「祝い事」という考え方が,もはやステレオタイプなのではないだろうか。正月番組が,司会もゲストもほぼ横並びで羽織袴,振袖・着物,というのももはや形骸ではないのか。祝い事は天皇家だけに任せていいのではないか。
ただ,筆者の育った家は正月だけはきちんとした行事が執り行われた。外出できる服装をし,居間に正座し,父親の挨拶から屠蘇の回し飲み,結び昆布などを授かって,一通りの儀式が終わってから,初めて解放されて食事となる。1年の初めだけは,凛とした瞬間だった。自分の家庭を持ったあと,屠蘇の儀式は数年はしてみたが,いつの間にか絶えてしまった。時代の変化なのかなと思っている。
時代はユニセックスに向かっている。男女は対等であるべきだと筆者も思うし,事実,特に学業においては優秀な女性が多かったと思う。その能力を発揮できない社会は,もったいない。フラットに意見を言い合える環境は当たり前だと思う。
ただそこに,男性はマウントを取ろうという姿勢があり,女性からセクシャルアピールを感じてしまうのに対し,女性はただ男性と対等な関係を維持するのに余分なエネルギーを使う必要に迫られる。男性に対してセクシャルアピールを抑える努力をしても,ほとんど効果がない。結果として,余計な努力をせずに自分にとって有利な相手を受け入れるためにセクシャルアピールした方が得,という考えも生まれる。
仕事の場面では,男女対等にあることが望ましい。したがって現代であれば男女ともダークでシンプルなスーツが望ましい。大発会といえども「仕事の場」であるとすれば,もっとシンプルにすべきだろう。その方が,仕事に対する気合がみなぎると思うのである。
振袖は「正装」かもしれないが,それは「仕事のための正装ではない」。大発会自身も,もはや無意味なイベントなのではないか。でなければ,大納会に続いて2日連続で続落するような場面はありえない。「仕事始めは大発会」という考えそのものを変えるタイミングと言えるだろう。女性社員の方も,ぜひそういう視点で自分の位置づけを考えた方がいいのではないだろうか。