映画『SHOGUN 将軍』が,エミリー賞に続きゴールデングローブ賞を受賞した。業界にとっては,おめでたい話である。
しかし本当に喜んでいていいのだろうか,というのが筆者の思いなのである。
というのも,映画やアニメで評価されるテーマが,戦(いくさ)であり,武家社会であり,あるいは現代のマイノリティだったりする点が気になるからである。
アニメでいえば,『呪術廻戦』や『鬼滅の刃』は侍の話であり,妖怪の話であり,戦いの話である。映画でいえば,『万引き家族』は最下層民がテーマである。
社会問題を取り上げるなら,アメリカの『不都合な真実』のように地球温暖化をテーマにすべきだろう。しかし,欧米人の基準では,『STAR WARS』や『プレデター』では宇宙人を相手に,西部劇では原住民のインディアンを相手に,侵略者と戦って勝つことがテーマのメインを占める。そういう戦いを好むのである。その国が作った映画賞で,戦いが好まれ,日本のサムライ文化が好まれ,ハリウッド映画として撮影されたことで賞を与えたという感じである。
アメリカのマンガでは,殴る蹴るの喧嘩シーンが多い。ネズミがネコを,ネコがイヌを,それぞれコテンパンにやっつける。
もちろん,日本もサムライ文化や忍者文化の伝統があり,ゲームでも殺し合いを平気でするものが好まれる。好みが欧米化しているのかもしれない。
相手を悪と見なして徹底的に戦うという意味では,現実社会でも同じである。アメリカにとって,かつて日本は不気味な敵だった。その不気味な相手の文化に対する「怖いモノ見たさ」が高じて,今回のような作品への受賞になったのかもしれない。かつての黒沢明作品についても同様である。ゴジラに至っては,怪獣映画である。
モノづくりで世界No.1になったころの日本は,発言力があったが,現在は世界の流れからまったく離れてしまっている。国力のある中国の発言力が強まり,アメリカとしては敵対国との位置づけは変わらないが,今月2025年1月に大統領に就任するトランプ氏が,また引っかき回すことになるだろう。
かつて,奴隷と猛獣を戦わせることが娯楽だった時代から,その残酷性をなくすために生まれたのが,スポーツである。しかし本質的な戦いであることに変わりはなく,その戦いを好む国が,アメリカや日本なのではないだろうか。まあ,人間はすべてなぜか戦いを好む生き物であり,同じヒト同士なのに相手を殺してしまうまで戦うという唯一のおかしな生き物なのだが,それをスポーツや映像,ゲームなどに置き換えてしまう知恵があるとも言える。しかし,現実の戦争も殺人もなくならないのも事実である。
八百万(やおよろず)の神を持つ日本が,相手の立場を理解してうまく立ち振る舞ってきた中で,ある意味で八方美人的に世界の東西の分断の橋渡しをしていたのは,日本にモノづくりという国力があった時期に限られる。いまやそのモノづくりの力は韓国,台湾を経て中国に移り,仲介役だったはずの日本が衰退し,東西の対立が再び深刻になってしまっている。西側の思想である映画賞やノーベル平和賞などを受けて浮かれている場合ではない。
せっかく日本が技術で先行した水素エネルギーなのに,太陽電池発電のエネルギーで水を電気分解して水素を作るグリーン水素プラントが,すでに中国で稼働を始めたとか,EV向けに時速120kmでの衝突実験に耐えるクルマのボディを実現したとか,今,地球が必要とする技術を東側の一員とされる中国が先行していることは,国際平和の上で非常に危険な状態にあると言える。ここでトランプ新政権が改めて「アメリカファースト」に偏って世界の警察としての役割から手を引いた途端に,東西は「対立」から「分断」へと進んでしまうのではないか。
弱い与党となった自民党と,国民を守るための政策だけで与党に迫る野党が,世界に対して発言力のある日本づくりに向かうとはとても思えない。せっかく長生きされておられるのだから,最後の務めとして上皇陛下には「お言葉」を発していただきたいと願っている。それが人間天皇となった今の天皇家に許される仕事だと思うのである。