jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「高齢者」という呼称をやめませんか--日本の新しい人口構成を正当化するために

日本は,長寿国として世界に名を馳せた。しかしそれに続く若者層の減少,そして出生率の減少により,典型的な壺型の人口構成になっている。

 日本の年金制度は,人口構成が山型(富士山型)になることで成り立っている。これは第二次世界大戦前のパターンである。戦争で若者が減り,山型から釣り鐘型になり,戦地から帰った若者によるベビーブームで一時的に人口が増える年があったが,その傾向は続かなかった。高度成長期の女性の社会進出により,結婚年齢が上がり,少子化が始まった。2000年以降の経済の停滞とともに,未婚率が上がり,少子化がさらに進み,壺型の人口構成になっている。

 これまで60歳で定年となり,その後の人生が80歳まで,生存率が30%として,高齢者の20年分の1/3,つまり6年分を若者が支えればよかった。20歳から60歳までの40年分の収入のうち15%を積み立てれば,60歳で働かなくなっても,すべての高齢者の後半人生を若者が支えられる体制ができる。

 しかし,現在は人生が90歳までで,生存率が60%。20年分の生活費を若者が支えなければならない。40年間だとすると,給料の50%を使わなければ高齢者の生活を支えられない。

 仮に,定年を70歳にしたとしても,残り20年の60%の12年を若者が50年間働いた給料の20%を積み立てる必要がある。それでも現在の仕組みで財源が破綻するのがわかっているのに,何の手も打たないよりはマシである。

 筆者も前期高齢者である65歳を過ぎている。転職したこともあるが,収入は50台のころの1/3である。しかし,まだ子供を養っている状況である。

 もし,定年を70歳にしたとして,その年齢までフル活躍してもらうには,きちんとした仕事を果たしてもらい,それに見合った報酬を与える必要がある。その20%を積み立てるというのなら,問題はないのではないだろうか。

 ところが,世の中では60歳が一つの区切りとなり,60歳を過ぎると正規雇用ではなく,契約社員となり,手当も賞与もなくなるのが普通である。多くの人が従来どおり65歳から年金受給を始める。これではまったく改善されないのは目に見えているではないか。

 まず「高齢者」という呼び方をやめることを提案する。高齢者というレッテルを貼られた時点で,「仕事をする気がなくなった」「年金でできるだけ生活しよう」というマイナス思考になる。高齢者だからということで給料を引き下げれば,やはり仕事への意欲がなくなる。

 もちろん,役職は別である。むしろ知識を持った専門職としての待遇をすべきだろう。閑職ではなく,若者ともチームを組んで仕事をし,企業のプロジェクトの一員であることで,やる気を引き出し,企業にとってもプラスに働くような仕組みが求められる。

 ただし,若手と同じような新しい仕組みに挑戦する姿勢も必要であり,意欲のない人は評価を下げるしかないのではないか。

 たとえば「長者」と書いて若者(わかもの)に対して「ながもの」と呼ぶのはどうだろうか。70歳までバリバリ働き,75歳から休む,という仕組みに変えてしまうのである。

 企業にとっては人件費負担が増えるが,その分をきちんと仕事をしてもらうことで成長を目指す。税金年齢が10年延びることで,年金の原資も確保できる。

 正直,現在「高齢者」と呼ばれていいことは一つもない。給料は減らされる,手当はなくなる,そのくせ医療費は増額される,年金は減らされる,厄介者扱いされるなど,やる気をなくしてしまう。

 すでに高度成長期のスピードでモノを作る時代は終わっている。「ながもの」に合わせてモノづくりのスピードも調整すれば,十分に対応できるはずである。いいものを作り,付加価値のあるものを作ることで,きちんと収益を上げる。そういう考え方が今の日本企業には必要なのではないか。

 若い人は,いい給料を払っても定着しない。そもそも,大学でいろいろな経験をしないで社会に出てくるので潰しが効かない。自分の能力やしたいことと違っていればあっさりと辞めてしまう。そこに多くの時間と費用をかける価値があるのだろうかと思ってしまう。むしろ,仕事の能力があり,やる気を引き出し,本人のペースに合わせて「ながもの」に仕事をしてもらう方が,いい結果が出るのではないか。

 これこそ,新しい働き方改革ではないかと思うのである。単にITを使ってリモートで人だけをつないでいるだけでは,付加価値のあるモノづくりはできない。そして,GDPに貢献もしないので税金も取れない,ということにしかならない。やはり,組織としての会社をきちんとまとめるための箱は必要であり,その基礎があるのが日本だと思いたいのである。