jeyseni's diary

「ジェイセニ」と呼んでください。批判ではなく提案をするのが生き甲斐です。

「病院で死亡が確認されました」「不起訴の理由を明らかにしていません」--いつも気になる表現を指摘する

海や川の遊泳区域がまだ解禁されていないのに,猛暑日が続き,とうとう強制的に梅雨明け宣言が出されてしまった。今年は人出が予想される海の家も,まだ準備ができていない。
 そんなタイミングでも,水の事故は次々に起きてしまっている。筆者は,水と土砂の中だけでは死にたくないので,いつも気の毒に思っている。
 報道でいつも気になるのが,「病院に搬送され,病院で死亡が確認されました」という表現である。
 死亡を確認するのは医師の仕事であり,医師以外は判断できないとされている(医師による死亡判断基準3つは後述)。一方,救急隊員などが死を判断するのは「社会死」と言われており,社会死を判断した場合は病院に搬送されず,警察が対処する,としている(社会死の基準6つも後述)。
 つまり,病院に搬送して,そこで死亡が判断されている,ということは,現場で救急隊員による社会死判断がされなかったということになる。しかし,一般的に現場では「心肺停止」で蘇生行動が取られているが,たとえば行方不明になって数時間経過後に発見された場合,「社会死」状態と思えるのだが,病院に搬送し,病院で医師が死亡確認する,という流れになることが多いようである。ただ,発見されたときにはすでに亡くなっているものを,病院搬送後にそこで「確認」と表現するのに,違和感を覚えるのである。
 確かに,亡くなった後に蘇生するケースもないわけではない。救急隊員が死(社会死)と判断して病院に搬送されなかったときに,蘇生してしまったら,それは救急隊員の判断ミスということになる。そこで,死亡判定は医師に委ねることで救急隊員としての判断ミスをしないようにしているようにも見える。
 そういう意味で,「救出」という表現も筆者としては引っかかっている。「救い出す」という意味に受け取ると,その時点では生きていたように思えるからである。心肺停止状態で現場で発見したことを「救出」と表現していいのだろうか。「発見」あるいは「搬出」とした方が適切なのではないだろうか。

 医師による「死の三徴候」は,
・呼吸が完全に停止している
・心臓が完全に停止している
・瞳孔が散大して、光への反応が得られない
とのことである。また「社会死の6つの基準」とは,
1.意識レベルが300である
2.呼吸が全く感じられない
3.脈拍が全くない
4.体温が異常に低く、冷たくなっている
5.瞳孔が散大している
6.死後硬直もしくは死斑が出ている
とのことである。
 ならば,「心肺停止の状態で搬出され,病院で死亡が確定した」とすれば,すでに現場でほぼ亡くなっていたことが読み取れるが,「心肺停止の状態で救出され,病院で死亡が確認された」では,病院で蘇生措置が取られたのかどうかすらあやふやで,やはり救急隊員によるより積極的な医療行為を現場でした方がいいのではないか,と思えるのである。医師が病院で運ばれてくるのを待機している間に,助かる命が助からないこともあるのではないか。
 ドクターヘリや,ドクターカー(「東京MRI」みたいな)の仕組みが,もっと充実すべきかと思われる。

   もう1つ気になっているのが、「検察は不起訴の理由を明らかにしていません」という表現である。
 容疑者が警察に逮捕され、裁判にかけるかどうかの起訴不起訴を判断するのが検察の仕事である。不起訴にするということは、裁判に持ち込んで司法判断することを断念したことになる。

   考えられるのは、証拠不十分という理由である。起訴して裁判しても証拠不十分で無罪になる可能性が高ければ、不起訴の理由として十分納得できる。警察にさらに証拠を要求すればいいことである。

   しかし、理由もなく不起訴にするという理由が、筆者には理解できない。誰か教えてください。